第三走者(2001年執筆)

矢吹修平はクラスの中でなかなかの女子の間での人気者であった。

だが彼は別に頭がいいわけでも、サッカーがうまいわけでも、特別にかっこいいわけでもない。

ただ、彼は足が早かった。

 

高校三年生の最後の大会を迎えた彼は、市の陸上大会において百メートルで1位、二百メートルでは2位、リレーでは1位の成績を修めた。

また、県の大会でも百メートルは2位、二百メートルは予選落ちするも、リレーでは彼の通う八代高校を1位の栄誉に導いた。

秋の国体への出場も決まっており、彼の高校生活における陸上人生は順風満帆のようであった。

しかし修平は国体への出場を辞退した。

表向きの理由は、受験であった。

修平は県大会で百メートルに出場したとき、今まで二年間負けつづけてきた江南高校の岸田に三度目の苦汁を味わされた。

そしてリレーではこれまで一度も勝てなかった岸田のいる江南高校に勝つことができた。そして、そのときに修平の陸上人生は幕を閉じたのであった。

 

修平にとって走ることは快感であり、手段であった。

選手が同じ条件で同時にスタートし、同じ目的に向かって全力を尽くす。

その中で誰よりも早く、そして、他のものに自分の背中を見せつける快感。

体中の全ての筋肉を緊張させ、脳の意識をゴールするということだけに集中させるときに生じる精神の高揚と覚醒。

ゴールを勝ち取った後におとずれる解放感と、会場の熱気と狂気の渦に巻き込まれながらもそれの中心に飛んでいける理性の発散。

修平にとってこの快感は、走ることのみが彼に与えてくれる、神が彼に許した産物であった。

そのために修平は高校生活の二年と半年を走ることによってうまれる快感で生きてきたのだ。

 

だが、いつの頃からか修平はその快感の先にあるものを感じていた。

快感の先にあるもの、それは漠然とした不安、つまり自分の限界、という誰も見たことはないのに誰もが恐怖する己の想像力の生み出した化物。

そしてこの化物を修平に気づかせてくれたのはライバルの岸田であり、それがちょうど先日の県大会の男子百メートル決勝でのことであった。

 

それ以来、修平は陸上部にも、その顧問の谷崎のところにも顔を出さずに、もくもくと勉強に励んだ。

生まれて初めて参考書を自分の小遣いで買い、三年ぶりに塾にも通いだした。

放課後は学校の図書室で閉館ぎりぎりまで鉛筆を離さなかった。

彼の視線は彼の集中力もそっくりとひっさげて勉強に向かったのであった。

彼の勉強に臨む姿勢は周りをあっと言わせるものであり、誰もが彼の頭の中は受験しかない、と思っていた。

実際、彼の成績は顕著に上昇の傾向をみせた。校外模試でも以前の偏差値が47であったのに対し、今では55にまで上がっていた。

一学期の三者面談で、スポーツ推薦で大学に行くのが妥当であり、もしそれを拒むとしても、県内の中級以下の私立大学にしか行けないと言われていた男は、九月の二者面談で先生に、中堅私立は狙えるだろうと言わしめるまでになった。

「ところで矢吹、お前はどこを目指してそんなに勉強しとるんだ」という先生の問いに、「いや、別に」と答えた修平だったが彼の中で志望校は限られていた。

中堅校に入ったって何の意味もない、俺はやるからには一番でなければおもしろくない、だったらさすがに国立は無理だとしても私立の一番上までは駆け上ってみせる、それが修平の考えであった。

もちろん親にはこのことは伝えた。

自らは何のこれといった取り柄もなく、人の良さと責任感の強さで自営業の弁当屋を営んでいる父信勝は、息子の熱意に全てを任せる、と言い。信勝の仕事を支える母の雅江も息子の陸上の才能を惜しみながらも、やれるところまでやってみなさい、と言った。

ただ信勝は自分の部屋に戻ろうとする修平の背中を見ながら思い出したように彼を呼び止めた。

「修平、お前も知っての通りうちは自営業だから金がない。お前のやりたいようにやらせてやるのが親の喜びでもあるが、いかんせん妹の美子も大学進学を希望している。できれば国立に行って欲しいんだが・・・」

修平はその問いの答えを予め持っていたため、修平は両親に熱っぽく自分の意思を興奮と緊張を保って答えた。

「俺は人には限界があると思うんだよね、俺は百メートルには向いていたかもしれんけど、二百には向いてなかったと思うんだ」

信勝は修平に、悔いの残らないようにだけ頑張れと伝えてタバコに火をつけた。信勝にとって今の仕事は三つ目の仕事であった。

 

修平は勉強をした。

その姿はクラスメートからみても様になるようになってきた。
そして、みんなも彼を見習ってだんだんと受験への意識を高めていくようになった。

また修平はよく先生に質問をした。
この姿勢は部活時代もそうであったように、自分の未知な部分は明らかにしないと気がすまない性格がなすものであった。

人気者であった修平は嫌味に映ることもなく、彼が走っていた頃と同様にみんなは彼を応援した。

いつの間にか修平は足の速い修平から、受験勉強を頑張る修平に変わっていった。

修平は走ることを忘れてしまったようでもあり、走ることに飽きてしまったようでもあった。

ただ、勉強に疲れ、息抜きをするときには、窓から運動場で走る後輩の姿を単語帳片手に眺めている姿を親友の池田マサシがよく目撃していた。

 

彼が走らなくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。

 

9月の末に行われたクラスのホームルーム、いつもは受験生を気遣った先生の提案で自習するのがならいであったが、この日は二週間後にひかえた体育祭の選手決めであった。

八代高校では一人が必ず一種目に出場することになっており、その種目は百メートル走、走り高跳び、綱引き、騎馬戦、八百メートルリレーなど多岐にわたった。

そして、それぞれの種目の順位によってクラスに得点が与えられ、その総合点の高いクラスが優勝となる。

修平は毎年確実に点が稼げるということで百メートル走に出場していたが、今年は綱引きに出ようと考えていた。
みんなの期待を裏切るのは心苦しいが、綱引きなら適当にやっておけば問題はないし、走らなくてすむ。

 

修平は陸上部を引退して以来走ることを頑なに拒んできた。

もちろんそれは自分自身に対してであり、体育の授業などでは彼はしっかりとまじめに動いていた。

しかし、それは動いていただけであり、決して快感を求めた走りではなかった。

そして、彼はそれによってより一層この快感は他のスポーツでは味わえないものだと思った。

サッカーやラグビーではいつも前から人がやってくるし、バスケやハンドボールではいつもボールを意識しなければいけない。

つまり邪魔が入るのだ。

そんな修平にただ一度だけ快感とまではいかなくとも前立腺を刺激されるような出来事が起こった。

体育のサッカーの時間、自陣が攻められているときハーフライン近くでそれを眺めていたら、敵のセンタリングからのシュートを味方のキーパーがセービングし、そのあまりのナイスプレーに興奮したキーパーがボールを掴んだと同時に前線に大きく投げ飛ばしたのだった。
野球部でキャッチャーをやっていたそいつの投げたボールは大きな放物線を描きながら修平と相手ゴールの真中あたりに影をうつしだした。
修平の隣には敵のディフェンスが二人いて、修平と同じようにボールの描く残像をおっており、敵のキーパーはゴールの柱にもたれかかっていて、やっと自分が敵に見られていることに気づいていた。

修平の体はちゃんと相手のゴールに向いていた。
だが、サッカー歴のない修平にはどうすればいいのか咄嗟のことで判断できなかった
その時同じチームだったサッカー部のマサシが叫んだ、

修平、走れ!!!!!

修平はボールがグラウンドに着地する瞬間をスタートの合図として、そこに向かって走った。ボールは転々としながら相手のゴールに近づいていく。向こうのキーパーもやっと自分の仕事を思い出してボールに向かって走り出した。ボールまであと三十メートル。修平は意識をボールだけに集中した。足を上げる。腕を振る。後は体が自然と風に乗りだした。修平は自分の背中に二十人の視線を感じた。修平は走った。誰よりもきれいに、誰よりも集中して。誰よりも速く。

修平は結局誰よりも早くボールを足で触ったのだが、それはトラップミスとなり修平の足にあたったボールは相手キーパーに大きくタッチラインの外にけり出されてしまった。

いやー、相変わらずおまえは足が速いな、危機を自らの足によって救い、気をよくしているキーパーは息をきらせながら修平にねぎらいの言葉をかけた。

ナイスキーパー、修平はそうこたえてスタート地点へと戻っていった。

修平は顔を伏せ、足取りはまるで一歩一歩を確かめているようで重かった。

決定的なチャンスを逃してしまったことを悔やんでいるんだろう、と察したチームメートは、どんまい、どんまい、追いついただけでもすごいよ、勝ってるんだから気にするなよ、向こうのキーパーもうまかったよ、などと口々に修平を励ました。

マサシも、やっぱりおまえなら追いつくと思ったよ、おしかったな、と友を称えた。

しかし修平は点を取れなかったのが悔しいわけでも、友の期待を裏切ったのが心苦しいわけでもなかった。

修平は久し振りの快感に戸惑い、またその快感の物足りなさが彼を苦しめていた。

この一週間後に体育祭のメンバー決めが行われたのであった。

 

クラスの室長が百メートル走から順番に各種目の立候補者を募っていった。

修平は予定通り百メートル走には手を挙げなかった。その時修平はクラスのみんなに立候補を促されるのではないであろうかと心配していたが、それは杞憂に終り、室長と眼が少しの間合っただけであった。

結局、百メートル走にはクラスでもそこそこ足の速い奴が立候補して、決定した。

修平が黒板にそいつの名前が書き込まれるのを見届けて、手元の単語帳に眼を移そうした時、ちょうど修平の二つ前の席に座っていたマサシと眼が合った。

「修平、俺とシンヤとコースケとで八百メートルリレーに出ようって話していて、お前を誘おうって話しになったんだ。お前が例年通り百メートルにでるんだったら諦めるって話しだったんだけど、そうじゃないみたいだからさ、俺らとリレー出ようぜ、お前がいればきっといいところまでいけるだろうしさ、頼むよ」

修平はまさかマサシにそんなことを頼まれるとは夢にも思っていなかった。

「ちょっと考えさせてくれよ」

親友の頼みを無碍にもできず、ひとまずそう答えた。

「じゃあ何に出るつもりなんだ?」

マサシはまだ修平の眼を覗き込んでいる。

「いや、別に・・・」

修平は単語帳の上に眼を向けた。マサシの眼は修平を少し懐かしい気持ちにさせた。

conclusion、conclusion、conclusion・・・・。

修平の眼はずっと同じ単語にしか向かっていなかった。走ってみたい、そんな気持ちが修平の中には眠っていた。

いや、眠っているというより、机に向かっている時でも友達としゃべっている時でも常にそれは疼いていた、といったほうが正確だろう。

修平はその疼きを否定することで現在の生活リズムを作り上げていた。
それを開放したら・・・・、修平は自らの葛藤に苦しんだ。

そんな修平の肩が後ろからたたかれた。シンヤだ。

「修平、頼むよ。俺さ、毎年出てるんだけど一度も勝ったことがないんだよ。最後ぐらいさ、いい思いさせてくれよ」

「やっぱさー、リレーっておいしいんだよね。体育祭のシメだしさ、観客席の前を走るわけじゃん、カッコいいところ見せようぜ」

「お前がでないとさ、他の奴探さないといけないからさー、な、頼むよ」

シンヤの隣にコースケが来た。

「修ちゃん、俺も出るしさー。確かに陸上部だからってプライドもあるだろうし、俺らが足を引っぱるってのも分かるよ、でも高校生活最後の行事なんだからさ、四人で頑張ろうよ」

「あとさ、七組はさ、陸上部が三人出る、って話だぜ。三人ってあれだろ、県大会で修ちゃんと走った」

「恵ちゃん県大会には来れなかったんだろ、久し振りにカッコいいところ見せろよ」

マサシもやって来た。

「たまには息抜きも必要さ、そんな勉強ばっかりしてたら覚えられる単語も忘れちまうよ」

「な、いいだろ」

conclusion、conclusion、conclusion・・・・結論、決定、断定。修平は三人の顔を見て頷いた。

室長はちょうど八百メートルリレーの選手を決めようとしていた。

「おい、室長。俺とシンヤとコースケと修平が出るから、よろしく」

マサシのその言葉にクラスが修平を見た、修平にはみんなが自分を見たように感じた。

修平の疼きは今、形を持とうとしていた。

舞台、目標、動機、応援、そしてそれを支える仲間が今、準備された。
後は主役が揃えば芸術は作品となる。

修平の恐れ、それは疼きが齎す生活の乱れと堕落、イメージのズレが生み出す混乱。

修平の期待、それは疼きが変貌するであろう快感であった。

material、材料・資料。legend、伝説。blast、突風、・・・・。

 

修平がなぜ走ることにしたのか。

それは彼の心の深遠な部分にまで入り込む必要性を感じる。

しかし、一言で言ってしまうならば、彼の若さによるものではないか。

彼にとって走ることによって得られる快感とは、自慰行為によって得られる快感と酷似していると考えられる。
独善性、排他性、利便性、至上性、それら全てが両者に共通することではないであろうか。

実際、修平が彼女である恵との性交に求める快感のイメージは、比較はできないとしても、走ったり、自慰をすることによって得られる快感より劣ったものであった。
他者性の欠如は大きなナルシズムを喚起し、その結晶を快感にまで昇華させる。

では、なぜ修平がリレーに出ようとしたのか。

リレーとは他者の存在する種目である。
四人がバトンをつなぎながらゴールを目指す。
一人でも、一回のバトンパスでさえもミスをしたらその瞬間スポットライトから外れてしまう。
それはスタートも同様だ。

しかし、一度脱落したかに見えてもスポットライトに返り咲くことも、奪い去ることもできる競技。

修平は十八だ。子供から大人への転換期。

修平が走ることにした理由が彼の若さによるものならば、彼がリレーに出ようとした理由、それは彼の大人の部分、老成された部分と言えるのではないだろうか。

修平の陸上部顧問の谷崎は今年の県大会の前に、リレーメンバー四人にこんな話をした。

お前らはそれぞれ足も速い。走力、基礎能力、体力、状況判断能力などどれをとってもいまさら言うことはない。ただ、次の大会に向けて一つだけ言っておきたいことがある。それは俺のリレー観だ。これが次の大会に生きるか分からんが、まあなんかの足しになるといいだろう。俺はリレーって奴は人間の一生の縮図のような気がするんだ。スタートラインは一緒、同時に走り始める。しかしお前らも知ってる通り、走っているときに何があるか分からない。その日の体調、グラウンドレベルでの温度や湿度、シューズの僅かなズレ、もちろんバトンパスも大きなタイムの差をうみだす。

「でも先生、人生は四人でつながないっすよ」

そうだな、人生は確かに一人で生きなければならない。だけど人間の一生は決して一人じゃ生きていないし、いつも人からバトンを渡され、そして渡しているんじゃないか。夢とか、希望とか、家とかそんなのは今流行らないのかもしれないけどな、人はオギャーって言った時からもう走り始めているんだよ。親父とお袋が種を着けたときからバトンは渡されているんだよ。金持ちに生まれる奴、もともと素質のある奴、スタートは確かに違う。だけど抜けばいい、自分のバトンを誰よりも速く、正確に、美しく運べばいいんだ。誰が最後に勝つかなんて分からない、自分が走り終わっても分からないんだ。最後の最後までバトンがわたり、ゴールをした時、初めて勝者ができるんだよ。でも俺らはとにかくバトンを渡す。別に次の世代なんかに渡す必要はないんだ。自分のバトンだ。自分で渡したい奴に渡せばいいし、渡さなくてもいい、ただ、渡すときには自分の、これまで走ってきた自分の全てを渡すべきなんじゃないか。責任と誇りを持って。

真っ赤になった谷崎の目が修平は好きだった。

ちょうどグラウンドの座っていた修平の顔を夕日が赤く染めていた。
修平は自分の中にも赤い血が脈々と流れていることを初めて知った気がした。

修平はアンカーを務めなければならないことが少し悔しくなった。自分はみんなの誇りを体現しなければならない。バトンを誰に渡すこともなく。

そして、修平たちは勝った。誰よりも速く、バトンをゴールに運んだのだ。修平は三人を抜いていた。

谷崎は興奮冷めやらぬ四人に言った。四人は誰よりも速く、そして美しかった、お前らが勝者だ、と。

その時、まさにその時に修平は新しい快感の波を感じた。

もちろん相手を抜いていくときなどは著しい快感の海につかっていたのだが、こうして谷崎の目から涙が零れ落ちるのを見て、それに負けるとも劣らない快感を修平は得たのであった。

 

体育祭まであと一週間となった。

修平の勉強は予想に反してはかどっていた。

彼の疼きは修平に暫くの妄想と空想を与えたが、マサシの言った通りそれは息抜きとして、一層修平の集中力を高めた。先日帰ってきた模試では終に偏差値が五十七までになっていた。修平の目標まであと五である。

修平たち四人はリレーの順番を決めることにした。足の速さで言えば、修平、コースケ、マサシ、シンヤの順であり、三人は修平にアンカーを務めることを求めた。

修平はアンカーが嫌だった。修平は提案することにした。
勝つために、そして自らの快感を得るために。みんなはそれに納得した。

第一走者、マサシ。第二走者、シンヤ。第三走者、修平。第四走者、コースケ。

修平は第三走者になった。

 

体育祭当日。

八百メートルリレーは最後の種目であるため、それまではクラスの友達の出場する種目の応援へと駆り出されていた。

修平はそんな中でもいつもの通り、自分の走りのイメージを作り上げることを忘れなかった。

一人二百メートル。走るコースはグランドのトラック一周。修平たちと同時に走るのは五チーム。全九チームでタイムで争われる。だがマサシの情報では、修平たちと共に走るチームが事実上の優勝候補であり、その勝者が優勝となり、一番速いであろうといわれる陸上部二人を擁する七組も同組であった。

校内アナウンスで八百メートルリレー出場者の招集がかかった。修平は他の三人と別行動をとっていたので一人で集合場所へ向かった。

すると偶然、体育祭実行委員をやっている彼女の恵と会った。

「次、出番だよね」

「ああ」

「県大会で見せたみたいな走りをしてよ」

「ああ」

「たくさん抜いてよ」

「・・・・」

「応援してるから、でも今、修平の十組と私の七組が優勝争いをしているからあんまり勝って欲しくないな、なんてね」

「ああ」

修平、頑張って、走れ!!!!!

恵の笑顔に送り出されて修平は仲間のもとへ行った。

三人とも笑顔の中に軽い緊張が見て取れた。

「みんな、緊張するなよ。俺が抜いてやるさ。リラックスしようぜ」

三人はお互いを小突きあい、修平に笑いかけた。

「恵ちゃんから応援のキスでもされてきたのか、ちゃんと見てたんだぜ」

「なわけないだろ」

「あつくていいねー」

修平が照れながらも周りを見渡すと七組の村田がいた。

「お前ら本気で走るんじゃないだろうな」

修平は村田に呼びかけた。

「お前こそマジで走ったら怒るぞ。卑怯だよ」

七組のもう一人の陸上部、桂谷が割って入ってきた。

「ところでやっぱりお前はアンカーなんだろ。俺と勝負か?」

「いや、今回は三番目だ。お前と勝負できなくて残念だよ」

桂谷は陸上部で修平と一位二位を争った仲で、自分のチームのアンカーのコースケではかなわないくらい足が速かった。

「じゃあ、村田は何番目だよ?」

「残念だけど俺は最初だよ。俺が突き放して、追いつかれてきたところで桂谷が抜くって作戦さ」

「貴史は出ないんだよな、あいつまで出るんだったらこっちに勝ち目はねーよ」

修平は正直陸上部の三人が出てくることを恐れていた。どんなイメージをしても三人が出たのならば勝ち目がない。だが、二人ならなんとかなるかもしれない。噂だと他の二人はうちで一番遅いシンヤよりも遅いらしい。

修平は適当に抜け出し、チームメートのところに戻った。

「どうだった」

三人が不安そうに修平の顔を覗き込んだ。

「大丈夫、俺らが勝つよ」

三人の顔が明るくなる。

ついにリレーの開始時間になった。

マサシがスタートラインに立つ。残りの三人はトラックの内側で待つ。

修平はマサシに言った。

「村田に勝とうとするな、だからできれば二位で帰ってきてくれ」

マサシは大きく頷いた。修平は伸也と孝介に言った。

「シンヤ、俺を信じてバトンを持ってきてくれ。コースケ、俺はお前にバトンを渡すから」

そう言い終わり、マサシの方を向くとちょうどスターターが手を大きく上げていた。

ピストルが鳴った、マサシは土をけった、五人が同時にスタートした。

修平の予想通り七組の村田がすぐに先頭にたつ、マサシもそれをがむしゃらに追っていく、第一コーナーを廻り始めると村田が一位、マサシは五組と二位争いをしている、その後に二人が続く、百メートルに差し掛かり始めた、村田とマサシは十メートルは離されている、マサシに疲れがみえる、五組とはほぼ同列で争っている、村田が最終コーナーに入り、七組の第二走者がバトンを待つ、マサシの顔が見える、シンヤが待つ、五組の奴も見える、村田が来る、渡す、「マサシ、頑張れ!」シンヤが叫ぶ、マサシが走る、バトンを差し出す、シンヤが三位で受け取る、先頭との差は十五メートル、七組から大きな声援があがる、シンヤが追う、先頭に十メートル遅れて五組が走る、二組の奴がシンヤを追う、速い、先頭は百メートルを過ぎようとしている、七組、五組、伸也と二組が並ぶ、さらに後ろから三組が追う、先頭の四人が十メートルの間でひしめく、走る、走る、追う、鼓動が打つ、先頭が直線に入る、続いて三人が見える、シンヤを見つける、鼓動がうつ、疼く、「シンヤ、あと少しだ!」「修平頼むぞ!」コースケが修平の背中を押す、疼く、トラックに立つ、鼓動、震え、鼓動、七組が出た、二組が来た、シンヤが来る、五組がいる、バトンを受け取る、前を向く、バトンを握る、横に一人、前に二つの背中がある、いける、十メートル、差をつけてやる、絶対に勝つ!走る!シンヤが叫んだ、

修平、走れ!!!!!



エピローグ

修平は目標の偏差値には到達するも、五つ受けた大学はすべり止め一つしか受からず、今は両親に頼み込んで浪人をしている。

リレーは人生かもしれない、走って、走って、求めて、走る。

人生もまたリレーなのだ。

そして修平は今自分の作った回り道でまた走っている。
追いつくために、追い抜くために。



 

 

後書

 

ぷふぁー、タバコが美味い。タバコ最高。
僕はこの小説に五番目に大切なもの、タバコを賭けた。年内に納得のいく作品ができなかったら禁煙するつもりであった。
この作品が納得いくものかはまたみんなの評価を聞きながら考える。
自分ではなかなかいい走りをしたつもりだし、前作のバトンを自作に渡したつもりではいる。

東京は怖い。何も奪わない。何もくれない。何でもある。何もいらない。そんな町だ。
そんな町で初めて書いた小説。
これにいったい何が込められたのだろう。

この作品の最初の題は「第三走者」であった(注:結局題名は変えなかった)。
僕がこの作品を書き始めたのはほんのくだらないことで、自分がリレーが好きだということ、いつも三番目に走るのが好きだった、ということ。

僕は修平のように足が速くない。だけど、走るのが好きだし、リレーも好きだ。
負けるのが嫌いで、勝たないと気がすまない。
「どうしていつもそんなに全力疾走なの?疲れないの?」と言われたことがある。
そのときは正直、意味が分からなかった。
でも今、この町で走っていて何かに気づいた感はある。
それは、修平が走る訳と一緒かもしれないし、ちがうかもしれない。
誰でも不安はある。だけど、その不安が吹き飛ぶ瞬間を追いつづけていたい。
誰でも快感を求める。だけど、いつでもまだ見ぬ快感をイメージしていたい。

主役はいつでも自分。仲間はいつでも心の中に。

 

修平のクラスは勝ったでしょうか? 負けたでしょうか? 修平はイメージ通り走れたのでしょうか?
僕にもそれはわかりません。是非感想を聞かせてください。

この作品ではタバコを続ける価値がないというあなた、僕は年度内にもう一本書きます。約束です。バトンはしっかりと握ったぜ。

 

                  平成十三年十二月二十八日 東京の自宅にて

河辺から3年(2005年執筆/未完)

あれから三年が経った。僕の周りもすっかり変わってしまった。
そして、何よりも僕自身も変わってしまった。

 

二十三年間の人生を生きてきて、これからそれよりも長いであろう時間を旅していくことになる。
きっとこれまで以上に辛く、苦しいことも多いだろうが、それよりも楽しいことや喜びに満ち溢れているであろうことを、僕は願う。

 

今の僕はこの瞬間を生きている。そして、この瞬間は二度と来ない。
だからこそ、その瞬間を切り取り、形に残したいと思いながら、苦悩する。
形にすることには美しさと欺瞞が詰まっているが、そうしないで一瞬を忘れてしまうこと、つまり記憶が風化していってしまうことを僕は何よりも怖れているのだ。

 

僕が生まれた時のことを、僕は知らない。

がどのような人生を歩んできたのかも、僕は知らない。

だが、それを知りたいとは不思議と思わない。
そういうもんなんだとどこか諦めに似た優しい気持ちを持つからだ。

生まれた時には体から精一杯の泣き声を絞り上げることしかできなかった僕が、これまでに話した言葉、出会った人、見た景色、読んだ本、聞いた音楽、そのすべてがもう失われてしまっている。

そして、僕はその記憶に残された愛すべきものたちに囲まれ、支えられ、精一杯に生きている。

今しか見えないものがある、と信じてきた。

同じモノでも今しか見えない見え方がある、と信じてきた。

今でもそう思うし、そうであって欲しい。僕は、多くを願う。

 

人生には目的が必要不可欠であると説いた。

そして、それが答えだと思う。

しかし、その具体的な目的を見失い、漠然として上を向いていることがあまりに多いのではないだろうか。

それに気付いた時、僕はその事実をなんとかして何かで覆い隠したくなるのだが、うまくいかない。

焦りにも似たもどかしさに突き上げられ、ただ、布団の中で時を過ごす。

もったいない時間の使い方をしてしまったと後悔しないように、常に体を休める。

いつか、体が動き回り疲れ果ててしまう時のことを期待と想像し、眠りにつく。

それじゃあいけない、なんて誰も言わないし、言われても聞かない僕。

寝ている時こそが、どんな喜びや感動にも比較できない平和と安心を心に抱く。

 

僕は、赤子に憧れる。

その未来に待っているいくつかの運命には関心がない、ただその時を精一杯に眠りながら生きている赤子に、今の自分をなんとなく重ねてみる。

しかし、当たり前のようにうまくいかない。

俺は赤子を可愛いと思うが、そこには理由もなければ、赤子が可愛がられるのにも理由はない。

純粋に本能のままに生きていること、そこには生物という生きた芸術としての全てが集約されているように思えるのだ。

 

三年前河辺を歩いた僕は、今は河辺を歩かない。なぜなら、歩く勇気がない。外に出れば、出会いたくないものや煩わしいものが僕を待ち構えている。

僕が今もっているものがそうやって手に入れてきたものであることは分かっているのに、もうこれで十分であるかのように錯覚してしまうのだ。

錯覚、じゃないかもしれない。もう、外に出る必要はないのかもしれない。

「どうするの? 」

僕は、外に出る。外に出なければいけない。

守らなければならないものなんてなかったけど、守りたいものはいつのまにか内側に抱えていた。だからこそ、外に出なければいけないのだ。

自分のためだけに生きてきた。自分がよければすべてがそれで楽しかったし、楽しい時間が永遠に続く人生こそ幸せであると思っていた。

でもそうじゃないってことに僕は今、気付き始めている。

外に出る意味が、急に変わってしまった。

外で遊ぶことが楽しくてしょうがなかったあの頃、家は退屈であった。

今も同じだが、決定的に違うのは、外より家のほうが安全であり、心地よいということだ。

保障と安全を目の敵にして生きていた十代。その頃の僕が今の自分を見たら、どう笑い飛ばし、罵声を浴びせてくれるだろうか。なりたくない大人になりかかっている僕は、恥じるべきなのだろうか。

 

無知であったあの頃、1人で生きていたあの頃、依然無知なのに1人ではない今。

僕が思うのは、昔の自分は誇りであるということ。
昔の自分を笑う気にはなれない。

そして、昔の自分なら今の自分を誰よりも批判できるであろう。
批判してほしいわけではないが、そうしてもらうことが何よりの慰めになるのだ。

いつまでも子供でいたかった。すぐにでも大人になりたかった。

今の僕は、大人だ。大人としてできることは、まだこれから学ばなくてはならない。

 

自分の幸せと、他人の幸せ、どっちが大切かという質問に対する答えがすっかり変わってしまった。

昔はこうだ。

「自分の幸せが一番だからこそ他人が幸せでないと困るし、自分の幸せに関係ないことはどうでもいい」と。

今は、こうだ。

「他人の幸せがあってこそ自分も幸せになれるし、自分と他人という境界が曖昧な存在にこそ、一番の幸せを願う」と。

 

僕の幸せって、何だ?

僕の目的や夢って、何だ?

 

こう考えると、僕はまた外に出てみたくなる。

考え込むのや、悩むのが嫌だからではなく、外にはいつも僕の心を刺激してくれるモノが存在していたからだ。このことは決して忘れてはいけない。

自分というのはいつも一番の存在であり、決して裏切らない。
だからこそ、たちが悪い。自分だけでは絶対に自分を理解することができないのだ。

外に出て、違うものに触れた時にこそ、初めて自分が見えてくる。僕は自分を知っている気になっているだけだ。

自分をもう変えたくないと思い始めているのも事実で、否定できない。
だが、もっと自分を成長させていく楽しみにこそ、貪欲でありたい。

 

ここまで僕を今に縛り付ける存在、それは僕の宝物である友人であると疑わない。
素晴らしい友を持ったゆえに、これ以上の友はもういらないのだ。
新しいものよりも、今もっている宝石たちを大事に、手元にしっかりと置いておきたい。

でも、誘惑を無視してはいけないのは分かる。

5年前、同じ強い思いと誘惑を持ち、東京に旅立った僕。

東京は何も与えてくれなかったけど、東京というステージで僕はチャンスをたくさん手に入れた。
日本の首都であり、人の集積場のような場所で、僕は埋もれた。

そこには外しかなく、刺激と寂しさが常に同居していた。僕は日々磨かれ、成長した。外にも、自分の居場所を確保するまでになった。

 

(未完)

河辺(2002年執筆)

僕の家の近くには川が流れている。
大学の帰り道、僕はいつもその河辺を歩いて帰宅する。
一人暮らしの狭い巣へは少し遠回りになるが、それが僕の日課である。

この河辺には、様々な人がいる。
サッカーや野球をする少年達、散歩を楽しむ老夫婦、愛犬と散歩をする女性、高校生のカップル、川をスケッチする青年、トランペットを奏でる少女、静かに川を眺めるサラリーマン。そして、僕。

 

季節は二月。天候は晴れ。気分は憂鬱。体は万年床の上。あそこは勃起。財布は軽い。部屋はタバコと精液臭い。携帯は着信もメールもなし。時刻は昼下がり。

僕は家を出た。タバコをくわえて、川に向かった。僕のセブンスター・メンソール、あと残り九本。

僕は明日で、二十歳。

 

アパートのある通りから一本出ると、そこには今日も川があった。ゆっくりと水が流れている。

僕は河辺に降り、そこから川を眺めた。太陽の日差しをいくつも散りばめた水面はそれを揺らしながら河口に向かって泳いでいく。

僕は口にくわえていたタバコを川の中に投げた。タバコはゆっくりと水面に乗り、そのまま吸い込まれていった。

僕はタバコを見送り、堤防の斜面に横になった。太陽が眩しい。僕は左手でそれを遮って寝ることにした。寒いけど、それもなんかいい気がした。

 

どれぐらいたったか分からないが、僕の目の前に人がいた。
学ランを着た高校生の男の子が一生懸命自転車を直しているのだ。
パンクでもしたのでであろう、僕も高校の時にはよく友達と二人乗りをしてパンクさせたものだ。

その時、その高校生と眼が合った。
高校生は野球部なのか頭は刈りあがっていて、自転車のかごには大きなスポーツバックがささっている。僕はなんとなく懐かしい気と気まずい気がし、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。

タバコを一吸いして顔を上げると、高校生はまだ僕の眼を見ている。僕は戸惑い、何かを言わなければ、と思ったが何を言えばいいか分からない。

僕はとりあえず右手に持っていたタバコを差し出した。

これ、吸うか? 高校生は照れ笑いをしながら僕のタバコを受け取った。

すいません、ありがとうございます。僕はタバコをくわえた高校生にジッポで火をつけてやろうとした。

いや、持ってますんで。高校生は自分の胸ポケットからライターを取り出して火をつけた。

すいません、ちょうどタバコきれちゃったんですよね、買いに行くにもお金もってないですし、自転車パンクしちゃって、なんかイライラしたんで、ありがとうございます、これ一本吸ってまた頑張りますよ、自転車ないと家まで一時間くらいかかっちゃいますからね。

僕は少し腹が立った、タバコの一本ぐらい頼まれればくれてやる、だけどこいつは明らかに高校生だ。確かに僕だってタバコは高校生の頃から吸っていた。だけどこいつはなんでこんなに堂々と、しかも当たり前のようにタバコを受け取り、吸うことができるんだ。

ねえ、君はさ、いつからタバコ吸ってんの?

えっ、説教っすか、いいじゃないですか、タバコぐらい、自分の体なんすから、えっと、今高校二年なんで、だいたい一年の冬ぐらいからっすね。お兄さんは今いくつなんすか? そんな俺と変わらないような気がしますけど。

俺は十九だよ。

なんだ、人のこと言えないじゃないっすか、おんなじ未成年なわけだ。

僕は無性にこいつに腹が立った。確かに僕は未成年だ、だけどこいつにおんなじ呼ばわれされたり馬鹿にされたりする筋合いはない。

君はさ、何でタバコ吸ってんの?

えっ、そんなの考えたことないっすけど、なんとなくですかね、周りも吸ってたし、なんかカッコいいじゃないっすか、ところで、お兄さんはなんでタバコ吸ってるんすか? 教えてくださいよ。

僕は答えを持っていなかった。考えたこともなければ、理由を求めたこともなかった。そう、まさになんとなく、であったのだ。

いいじゃないかよ、秘密だよ。お前が大人になれば分かるよ。それまでに考えておけよ。

僕は腰を持ち上げ川に沿って歩き始めた。

じゃあな、僕は高校生の顔を直視することができなかった。

あっ、タバコありがとうございました。

僕は自分のくわえていたタバコを川に放り投げ、そしてそのまま川上に向かって歩いてみることにした。

 

僕が河辺を歩いていると、ザザッーと人が斜面を転がり落ちてきた。
紺のコートをはおった初老の男性のようだ。
その男は僕の五メートル先にうずくまったまま立とうとしない。
ううー、っとうめいてはいるものの顔は下を向いたままだ。右手を上げようとしているのか体の右半分を起こそうとはしているが肝心の右手はだらしなくそこにぶら下がっているだけだ。

僕は心配だった。しかし、面倒に巻き込まれるのもいやだったし、その男性の身なりは明らかに浮浪者だった。

公園の公衆便所からするような嫌な臭気が鼻をつく。
男は何とか顔を上げ、僕の眼を覗き込んだ。
僕にはどうすればいいか分からない。どうすることをこの人は求めているのだろう。
周りにはこの時間には珍しく人はいない。

あのー、大丈夫ですか? 立てますか? 僕は社交辞令のようにそう呟いてみた。しかし、その男性は何も答えない。

救急車呼びましょうか?

僕は何も答えない男に腹が立った。僕の親切が愚弄されているような気すらしてきた。そして、自分のあまりに気持ちのこもっていない発言にもいらだってきた。

僕はどうすればいいかよく分からないが、とりあえず息を大きく吸ってその男性のところへ走り寄った。

僕は男性の右肩に自分の肩をかし、なんとかその男性を仰向けにすることに成功した。

大丈夫ですか? その男は酒に酔っているようで、無精ひげの奥の顔は黒く、少し赤らんでいる。

酔っているんですか?

おい、兄ちゃん、俺は酔ってなんかないぞ、これでもちゃんと二本の足で歩いてきたんだ。酒なんかにはなー、飲んだことはあってもこの五十年間飲まれたことはないんだよ、ふざけるなよ。

僕はこの人に感謝こそされ邪険に扱われる理由はない。

そうですか、大丈夫みたいだったらもう僕は行きますよ。

誰がいてくれって言ったんだ、兄ちゃんこそ酔ってんじゃないか

僕は貴方みたいに昼間からお酒なんか飲まないですし、まだ未成年ですから。

そうか、じゃあ兄ちゃんは何に酔ってんだ?

酔っ払いの言うことは意味が分からないし、その意味を考えること自体が無駄だ。

とにかく、僕は酔ってませんから。僕はタバコに火をつけた。

まあ兄ちゃん、そんなに目くじらたてて怒んなって、若いんだからのんびり行けよ、俺もその頃はこの川のほとりでのんびりとやってたよ。

この人は頭がおかしいんだ、相手にしてはいけない。

兄ちゃん、人間てもんはよ、いつでも何かに酔っているもんさ、それがそいつの生き方さ、俺は酔ってないよ、もう酔えないんだよ、酒なんて外部のものにゃー世話になんないでも兄ちゃんは酔っているんだよ、うらやましいなー、若くていいなー、いつかその酔いに気づくよ、そん時冷めちまうんだよな、まあ俺が兄ちゃんに教えてやれんのはそんなことだよ、のんびりやりな、のんびりな。

それはどうもありがとうございました。僕は思いっきり嫌味を込めて深くお辞儀をしてその場を立ち去ろうとした。

いやー、いいね、若い、若い。僕はますます腹が立ってきた。

僕は右手に持っていたタバコを男に向かって投げつけた。

おー、危ないじゃないか、ほんと近頃の若者はなんでもポイポイ捨てやがる。男は吸殻を取って自らの口にくわえた。

なんだこりゃ、メンソールか、俺の口には合わんよ。男は川の流れに吸殻を投げ入れた。なんでも流れに戻さにゃあかん、それが摂理だ。

僕は仰向けに転がったままの男に背を向けて川上に歩きだした。

 

僕が何のためにこの河辺を歩いているのかを忘れかけたとき、目の前を四歳ぐらいの女の子が横切っていった。

待ちなさい、モモコ。その女の子を追いかけるように母親らしき人が走っていく。

僕は眼でその子を追っていると、その少女も僕の眼を一瞬だけ見た。そして、それと同時に少女は石に躓いてしまった。

モモコちゃん、大丈夫? 痛くない? 少女は自分の母親を視界に捉えると安心したのか、その場で大きな声で泣き出した。

いたいよー、いたいよー、おかあさん。僕はなんだか心が温まるような気がしてその光景を眺めていた。

モモコちゃん、ちゃんと足元を見ないとだめでしょ、それにお母さんのことを置いていくからいけないんでしょ、もし大きなお怪我をしたらどうするの? お父さんに怒られるのはお母さんなのよ、気をつけなさいね。

何もそんなことまで言わなくても。少女は言われたことは全て理解できなくても、自分が母親に怒られているという揺ぎ無い事実だけは、正確に、そして大事に覚えているだろう。

少女は一層大きな声で泣き始めた。河辺には僕を入れてこの三人しかいない。

母親は一瞬僕の顔を見たが、また愛娘をあやし始めた。

さっきからずっと立ち止まって二人を見ている自分の不思議さに気づきながらも、僕は二人を見ていたい欲求にかられていた。

何がそうさせているのかは分からないが、少女が泣き止むまでは見届けたかった。

僕は少しでも違和感をなくすためにタバコを吸うことにした。
そして、目線を川の流れへと向けようとした時、また少女と眼が合った。
すると、それと同時に今度は少女がヒステリーを起こした。

えーん、いたいよ、いたいよ、あーん、あーん。少女は急に両腕を振り回しながら母親に飛び掛っていった。

やめなさい、モモちゃん。母親は娘の両腕をそれぞれの手で掴み、なんとか抑えようとはしているものの、少女は両腕でぶら下がっているのをいいことに、今度は両足で母親のことを蹴り始めた。

やめなさい、こらっ、やめなさい。
僕はすごくいたたまれない気持ちになった。何故か心の奥が僕を行動させようとする。
母親を殴った記憶、それは僕の心のずっと奥のほうで眠っているもの。
思い出ではなく、ただの記憶として、体の一部として僕の中に存在している。

僕は二人の間に割って入った。だめだよ、お母さんを叩いちゃだめだよ。

僕が入っていくと二人とも驚いた顔で僕を見た。

なんなんだ、この人は・・・・・。

時が止まった。

モモちゃん危ない!僕が左手に持っていたタバコがちょうど少女の髪の毛を焦がしつつあった。

母親は僕の左手をはたき、少女の頭を抱きしめた。

モモちゃん大丈夫? おうちに帰ろうね、お父さんも今日は早く帰ってくるよ。母親は僕には何も言わず、ただ目礼だけをして堤防を娘の手を持って上って行った。

僕は左手に響いた振動が体中に余韻を届け続けるのに身を任せていた。
眼の先では、さっき弾き飛ばされた吸殻が川をゆったりと流れていた。

耳に川のせせらぎと自動車の騒音だけが響き始めた頃、僕はまた川上に向かって歩き始めていた。

 

今日という日の、日常性と非日常性の混乱をかかえたまま、僕はあてもなく歩いた。
不思議な日なのか、別にどうってことのない普通の日なのか。

あっ、落ちましたよ。僕とすれ違ったサラリーマンが腕に抱えていたかばんの中から新聞がこぼれ落ちた。

僕はその夕刊フジをサラリーマンに差し出した。あっ、どうもすいません。

新聞の一面は最近世の中を騒がしている外務省の問題についてであり、ちょうどその見出しである、「伏魔殿は政治家の神殿か」というところに黒ずんだガムが付着していた。

あっ、不運でしたね。僕はとりあえずそう言って、その場を取り繕うことにした。

サラリーマンの顔はやけに笑顔で、眼は澱んでいた。

いや、いいんですよ。仕方がないですよ。あ、でもまだあんまり読んでなかったんですけどね。いやー、本当に最近私ついてないんですよ。あれー、本当についてないんだよな。今年のおみくじ大吉だったのに、あっ、あの神社に行ったこと自体が運がなかったのかな。

なんで今日はこう変な人にばかり遇うんだろう。この人は急いでいたんじゃないんだろうか。サラリーマンはさっきまでせかせかと動かしていた足を、ご丁寧にきっちり揃えて僕のほうに向けていた。

この新聞貴方読みます、いや、私はね、一通り目は通したんですよ。どうせ家には夕刊が来てますし。あー、でも貴方若いから夕刊フジなんて読まない、そうですよね、こんなのおっさんの読み物だって思ってるんでしょ、ねえ。

この人はガムがついたことを忘れているのだろうか、それとも僕との会話を長引かせるためにこんなくだらない独り言を僕に聞かせるんだろうか。

あの、僕はいりませんから。おじさんもいらないんだったら捨てたらどうですか?

あーそうだよねー、君から見たらもう僕はおじさんなわけだ、年は取りたくないよね、君は学生かな、僕はいくつに見える? これでも同期の中では髪もふさふさしてる方なんだけどな、まあ、結婚して子供がいたって普通の年なんだし、いまさらおじさんて言われたって気にしていたら生きてなんていけないよ、でも、あー、そうだ、おじさんて言われたのが初めてなんだ、君、今日は何日か分かる?

えっ、二月の十六ですけど。

そっか、じゃあこの日は僕にとって記念日なわけだね、そういうことなんだね、そして、君は記念の人なんだね。

僕はこの人の話を聞いているのが面倒くさくなりタバコをくわえた。

おい、君はなんなんだい、僕がタバコ嫌いなのをしらないのか。

いや、知らないっすよ、だめならすぐしまいますよ、火もつけてないっすから。僕はとにかくこの人と話すのは嫌だった。

そういう問題じゃないんだよね、分かるかな、いや、君にはわかんないよね、だからタバコなんて吸おうとするわけだし、目上の人に対する尊敬、敬意ってもんがまったく感じられないんだよ、君だって年下の奴に馬鹿にされるのは嫌だろ。

確かに年下に馬鹿にされるのは腹が立つ、しかしそれは年なんか関係ない。僕が僕以外の人間に馬鹿にされるのは許せない。それに、敬意ってもんは年なんかに関係ないんじゃないか。

君はちなみにどこの大学なの? このあたりに住んでいるってことはS大学かB大学か? 僕はH大なんだけどね、やっぱり先輩に恵まれてね、君にはまだ分かんないかな? ようは社会に出たらコネってわけ、コネってわかるよね? コネクションの略ね、だから僕みたいにまじめにコツコツやった人が勝つとも限らないんだけど、僕みたいに両方あるとね、こうやって高校とかの同級生にうらやましがられるってわけ、難しいかな、つまりさー、モテるってことよ、俺なんて中学校の同窓会とかじゃモテモテだよ、みんな結婚意識する年だしね、僕みたいないい男そんないないわけでしょ、まだ言ってなかったかもしれないけど、やっぱ業界人ってやつ、銀座とかでさー・・・・

僕はストレスを感じた。僕は何も悪いことをしていない。
そして、この人にいい事をしてあげる必要も義務もない。

あの、楽しそうなお話中失礼なんですけど、僕、そろそろ行きますんで。僕は川上の方に歩き始めた。あっけにとられる男を無視してさっきからくわえたままのタバコに火をつけた。

おい、待てよ、これ俺の名刺だからさ、えっ、すごいだろ、これやるからよ、就職困ったら電話してこいよ、俺の力みしてやるよ。

僕は無視しようかと思ったがこれ以上自由な時間を拘束されるのは嫌だったので名刺をタバコを持っていた左手で受け取った。

おい、なめてんのかよ、俺を怒らせると恐いんだぞ、ふざけるな。男は僕の左手を新聞で弾き飛ばした。

僕の手にあった名刺とタバコ、そして男の持っていた新聞紙は仲良く音を立てて川に飲み込まれていった。
僕は川に向かってつばを吐き、そのまま体の向いている方へと歩いていった。

 

太陽もだいぶ傾いてきた。
僕の眼に映る川も今まで見たことのない表情を見せている。

こんなに川に沿って歩いたのは初めてだった。

僕は少し歩き疲れて、河辺に置いてあるベンチに腰掛けた。
座って眺めると水の流れは一定のように見えて、微妙に変化しているような気がする。
石や砂利や泥が混ざり合って、よどめきあって、一つの流れを作っている。

川が、お好きですか?

僕の隣におばあさんが座っていた。

はい、どれだけ見ていても飽きないんですよ。

何故か僕は今日初めて人としゃべった気がした。

そうですか、川はいいもんですよ、何年たっても変わらないもんってのはきっといいものなんですよ。世の中は、何でも変えろとか、悪いものはすぐになくせ、なんて言ってるけど、結局は、川を流れているだけなんだろうね。

僕にはよく意味が分からなかった。

おばあさんはこの辺に住んでいるんですか?

何故かこの人には自分からしゃべりたいと思う。

そうだよ、生まれたときからこの川を見てきた、生まれたのはもっと上流の方なんだけどね、こっちに嫁いできて、今は息子夫婦と住んでいるのさ。

そうですか。なんとも言えない懐かしさが体を支配しているのが分かる。
自分の体なのに、自分が何も分かってないのがよく分かる。
僕は、泣いている。

どうしたんだい?

いや、なんか自分の死んじゃったおばあちゃんの事を思い出していたんですよ。僕が高校の三年になるまでずっと一緒に暮らしていたのに、悔しいのが、本当に今でも悔しいのが、一度もありがとうを言えなかったんです。言いたかったんです、一言でいいから、僕を愛してくれてありがとう、と。

そうかい、そりゃあ、あんたのおばあちゃんは素敵なお孫さんをもってさぞ幸せでしょう、でもあんたのおばあちゃんはきっとそんなこと言われるためにあんたを愛していたわけじゃないんじゃないかい、あんたを愛し、あんたを育てることが、おばあちゃんの幸せであり、喜びだったんだよ。

僕の涙は止まらない。

それにあんたを育ててくれたのはあんたのおばあちゃんだけかい? 違うはずだろ、まだ生きてる両親にも感謝できない子供が、おばあちゃんにだけ、なんてむしがいいと思わないかい? あんたが生きていることはきっと多くの人の祝福を受けてきたんだよ、人間は祝福に感謝するために生きているんじゃないよ、人間ってやつは面倒なもんで、祝福を受け、そして祝福をしていくために生まれたんだよ。生命を祝福していくことが、あんたにとって大事なことなんだろうね。

僕の涙腺は僕のものではないようだ。

おばあさんは今、幸せですか? 自分の人生が幸せだ、って思いますか? 僕は涙声で言った自分の声が相手に聞こえたか心配だった。

おばあさんは川を遠い眼で眺めている。僕はそのおばあさんの眼を眺めている。

僕はタバコに火をつけた。タバコの味が少し塩っ辛い。

私はね、辛い人生を歩いてきたよ、楽しいことなんて思い出せないし、いい思い出なんてものも思い当たらない。

僕はすごく悲しい思いになった。僕は期待していたのだ、この人が自らの人生を幸せだと言って肯定してくれることを。

でもね、幸せだったかなんて分かんないよ、もちろん不幸せだったかもね。それは、まだ私が生きているから。生きているうちにそんなこと真面目に考えちゃ長生きはできないよ、あんたのおばあちゃんも今ごろ天国で自分の人生を振り返っているさ、そして、自分の人生の最後を幸せに感じさせてくれるのが、きっとあんたなんだろうね。あんたの存在が、彼女の幸せなんだろうね。

おばあさんは泣いていた。僕も泣いていた。
二人で流れ行く川を見つめながら泣いていた。

僕は自分の右手に溜まった涙にタバコの火を押し付けようとした。こうやって感傷に浸っている自分にいらだち、今の自分の無力さとそれに安住している自分の惰性が許せなかった。

うっ、タバコから燃えカスが飛び散り、手に当たった。

あんた、何やっているんだい!

僕は驚いて左手に持っていたタバコを投げ捨て、川上に向かって走った。

タバコはまた川を流れているのだろうか。たぶんさっき捨てたタバコは川を流れているような気がした。

あっ、そういえば今のおばあさんにありがとうを言ってない。そう気づいたが後ろは振り向かなかった。

 

僕は自分の靴紐がほどけているのに気づき、その場にしゃがみ込んで紐を結んだ。

すると、ちょうど自分靴の上を一つの影が通り過ぎた。
僕がその影を追うと、そのスニーカーも紐がほどけていた。

あの、紐がほどけてますよ。僕はスニーカーに言った。

あっ、ほんとだ、ありがとうございます。スニーカーの持ち主は僕と同じぐらいの年の女の子だった。

女の子はその場にしゃがみ込んで紐を結び始めた。
クリーム色のスカートをはいた
女の子は僕の方に体を向けて作業をしており、僕の眼に彼女のピンクの下着が飛び込んでくる。

僕は言いようのない歯がゆさと気まずさを感じ、タバコを大きく吸った。

散歩しているんですか?

はい、いい天気だから。貴方は?

いや、僕もそうなんですよ。僕の場合はただなんとなく、なんですけどね。

私もそうですよ、一人で家にいたってつまらないから、こうして当てもなく歩いているんです。

僕はこの女の子に少しだけ自分と同じ匂いを感じた。普段なら見ず知らずの女の子に声なんてかけられないが、今日という日の非日常性と、この女の子が持つ匂いが、僕に勇気をくれた。

女の子は紐を結び終わり、僕ピンク色の興奮を隠してしまった。

その僕の残念そうな顔が、退屈そうな顔に見えたのか、女の子は自らもタバコをくわえ、僕に話しかけた。

実はわたし、今すごい悩んでいることがあるんですよ、こんなまったくの初対面の人に話すのもすごく変だとは思うんですけど、年も近そうだし、聞いてくださいね。

私、もうすぐ二十歳になるんですけど、処女なんです。変な話をしているのは十分承知なんですけど、変な女だって思わないでくださいね、大切な話なんですから。

僕のあそこは勃起していた。どう考えてもこの子は変な子だ、何がいいたいのか僕にはまったく理解できないし、今後何を聞いても理解できそうにない。ただ、無性にこの子に性欲が湧いているのは事実だった。僕の頭の中はこの子の処女をどのように奪うかで一杯だった。

それで、今好きな人がいるんですけど、やっぱり二十歳で処女っておかしいですか? わたし、男の友達っていないし、あなたはなんか真面目っぽいから信用できそうだし、どうなんですか?

僕の頭はまったくと言っていいほど働いていない。まさに、僕にちんこが付いているのではなく、ちんこに僕が付いている、といった感じであった。

僕の脳に張られたテロップには、僕も二十歳になるんですけど、童貞なんですよ、一緒に卒業しませんか。意識は下半身を脱しきれない。

男の人ってどんなひとでもH好きじゃないですか、でも私っていつもそんな雰囲気になると冷めちゃうんですよね、だって、その人が愛しているのは私の心であって、体じゃだめなわけですよ。心が体に嫉妬しちゃうのってまずいじゃないですか、そう思いません?

僕のちんこは言葉をしゃべれない。

みんなは心と体は一緒だとか言うじゃないですか、でも人間ってそんなに器用じゃないと思うんですよ。体も心もそれぞれ意識ってものを持っているし、無意識の部分だってある。中身が外見を演出して、外見が中身を構築するってことは知っているけど、私の中身は処女性にこそ私のアイデンティティを見出すんですよ。

彼女の発言はとっくに僕のちんこのI.Qを超えていた。

快感って体の感じるもので、私の中では、本当の快感っていうものは体と心が同時に感じられなければ嘘なんですよ、だから私にとってセックスにおける他者性っていうものはマスターベーションにおける虚像と同じで結局は意味を持たないものなんです。さっきからずっと考えながら聞いてくれているみたいですけど、こんな私の悩み、わかってくれます?

僕のちんこはもう萎えていた。そして、萎えたちんこに付いていた僕はこの子に対する性欲を完全に失ってしまった。

なんとか、ちんこの付いた僕に戻る。なにかが吹っ切れた気がする。

僕はさ、実は童貞なんだ、だけど、僕はセックスしたいな。いつも想像して自分でオナニーしているけど、どっか悲しいんだ、もちろん二十歳なのに、ってのもあるよ。だけどさ、セックスに対する欲望だけは誰にも負けない自信があるよ。無知ってさ、無謀になっちゃいけないけど、すごい勇気をくれると思うんだ。僕のセックスへの想像力はきっと百人の女と寝た同い年のやつなんかよりすごいよ。そして、僕はこんな惨めな自分に自信を持っている自分が好きなんだ。君が処女なのには、君なりの理由がある。僕が童貞なのには、僕なりの言い訳しかない。難しい言葉はよく分かんないけど、それが僕のアイデンティティって奴なんじゃないかな。

僕は震える手でタバコを大きく吸った。生まれて初めて自分を人の前で誉めた気がした。

私、あなたみたいな人と付き合えばきっと幸せになれるのにね。お互い幸せになりましょ、童貞、大事にね。彼女は川下の方へと歩いていった。

僕は彼女に童貞を奪ってもらっても何の後悔もなかっただろう、と後悔しながら川上に足を動かした。タバコは忘れずに川に投げ込んだ。

 

ここはどこだろう、僕はどれだけ歩いたんだろう、あたりはもう暗くなり始めている。
一抹の不安がよぎる。
大丈夫、川に沿って戻れば、僕は後ろを振り返ろうとした。

おお、森山じゃん! 僕は声のした川上を見た。

菅谷じゃん、久し振り、お前どうしてこんなところにいるんだよ。

そんな、お前こそ。

菅谷は中学校時代の同級生だった。

中学の卒業式以来じゃん。

そうか、もうそんなになるんだな、なんか懐かしいよ、お前は変わんないな。

そんな、お前こそ、一発で分かったよ。俺らももう二十歳だよ。

そうだよ、お前らは二十歳だよな、いいよな。

何言ってんだよお前だって同い年じゃないか、ふざけるなよ。

僕は菅谷と顔を見合わせて笑った。どこか菅谷には元気がない、そんな気がした。

僕はタバコに火をつけた。お前も吸うか?

いや、俺は吸いたいけど吸えないんだよ、気にせず吸ってくれよ。

そっか、じゃあ遠慮なく吸わしてもらうぜ。僕は煙を大きく吐き出した。

ところでさ、森山は将来どうすんの? 何か考えている?

なに急にシリアスな話を始めるんだよ、俺ら久し振りに会ったんじゃん、もっと楽しい話をしようぜ。

僕は笑いながら菅谷を見たが、彼は笑っていなかった。むしろ苦しそうにすら見えた。

今日は不思議な日だ、僕は割り切ることのした。

ごめん、ごめん、実際のところまだ決まってないんだ。来年は三年で就職活動も始まるけどさ、まだ自分に何ができるのか分かんないんだよ。それに、自分がやりたいことができるって保証はどこもないしね。もちろん考えてはいるよ。だけどそれが形にならないんだよ。不景気だし、日本だってこんな感じだろ、正解なんてないんだよ、どっちに転んだってなにも変わらない気もするしね。まあ、なんとかなるんじゃないかな、って思って生きているよ。お前はどうするんだ、菅谷?

俺のことはいいよ、で、お前は今楽しく生きているのか?

変なことを質問する奴だ、昔から変わった奴だったがこんなではなかった気がする。

正直楽しくなんてないよ、中学の頃が一番楽しかったさ、毎日を全力で駆け抜けて、自分の好きなこと、自分の楽しいことだけを追いかけていた。今なんて、ただなんとなく今日がきて、明日がきて、そして未来が来る、って感じでさ。昔は毎日が新鮮で、毎日が発見で、毎日俺らはときめいていた。だけど今はときめきなんて考えられない生活だよ。自分で言っててむなしいけどさ、それが現実なんじゃないの。

菅谷はひどく悲しそうな顔をしている。

森山、俺が今から言うことは別に上から言うわけでも、下から言うわけでもない。対等な立場として言うんだけどさ、多分これは俺がお前に何かを伝えられる最後だと思うんだ、別に押し付けようなんて思わない。ただ、少しでも印象に残ったことを覚えておいて欲しいんだ。

俺らは二十歳になる、つまり二十年間生きてきたってことだ。そして、成人となる。法律上俺らは大人になるわけだ。だけど俺らは何一つ変わらない。成人したからって価値観も世界観も、主体的なものは何も変わらないんだ。ただ、世間の見方が変わるだけ。そして世間の見方が俺らの価値観や世界観を侵食していくんだ。俺らはいつまでたっても自分でいるべきだ。大人と子供の境界なんてないんだ。そんなのは大人が作った理屈でしかない。そして、大人になることをマイナスイメージで捉えること、これも子供が作ったただの大人への反抗の一環でしかない。結局は全てが幻想なんだよ。大人、子供、どちらにも正と負のイメージがあるけど、一つだけたしかなのは、年をとるということだけ。俺らは二十年間精一杯生きてきた、それが成人の証なんだよ。今日という日は二度と来ない、それを知っているのに今日はいつもあっという間に過ぎていってしまう。そんな現実はいつも俺らを悲しくさせるけどさ、それでいいんじゃないかな。ただ、毎日を思いっきり生きられれば、それで幸せなんじゃないかな。二十年間生きてこれた幸せ、二十年間でできた最高の思い出、それを引っさげて次の二十年間をこの二十年間よりも楽しく、幸せに生きられればそれが大人であり、今日の自分が生きている意味だよ。

僕は吸っていたタバコを川に捨て、もう一本新しいタバコに火を付けた。

ありがとう、ハッキリ言って菅谷の言うことは全部理解できなかった。だけどさ、俺も四十になった時にさ、二十歳の自分より幸せであることを望むし、そうなれるようにも頑張ろうと思う。今日の自分より、明日の自分の方が幸せじゃなきゃ生きている意味なんてないしね。

菅谷は僕の眼を見て頷いた。森山、きっとお前が四十になった時もここで会おうな、絶対に。

おう、そんなこと言わずにまた会おうよ、家が近いみたいだしさ。

菅谷は笑ったまま僕に手を振った。森山、このまま川上に向かって歩いていけよ、そうすればお前の家に帰れるよ。

でも・・・・。僕はしゃべるのを止めた。

わかった、菅谷、ありがとう、また二十年後にな。

森山も元気で。僕は口にくわえていたタバコを川の向こう岸に届くぐらい思い切り投げた。

菅谷、これやるよ。僕は九本目のタバコを菅谷に投げ、それの行方を追わずに川上に向かって歩き始めた。

ありがとう、森山、みんなにもよろしくな、精一杯俺の分も生きてくれよ。

僕は涙の止まらない眼を左腕でこすりながら足を力の限り動かしていった。

 

左腕を顔の前からどけると当たりはもうすっかり薄暗くなっていた。

そして、そこは僕が昼寝をした土手のまさに目の前であった。

少しおなかが減った気がする。僕はポケットからタバコをだし、それをくわえながら家の方に向かって歩き始めた。

タバコの煙が夕闇に溶けていく。僕も暗闇に紛れ込んでいく。

明日、二十歳になる等身大の僕で、僕の好きな僕のまま。

 

 

 

十代への後書

なんとか書けました。変な話、二十歳になれる幸せの結晶がこの作品かもしれない。

あー、後書だから構成なんて全く無視して書けるのがうれしい。もともとそんなの考えないで思うままに書いているんだけど、こうやってある意味つれづれなるままに文章を書けるのは幸せだ。そして、これを読んでくれる人、この作品(というか僕の新作)を待ってくれている人がいるという幸せを今はかみ締めています。生きててよかった。hozmixでよかった。おおげさかな、でも、僕はとってもうれしいです。

一応、作品について。なんかよく分からないってのが本音かな。二年ぶりの私小説でかなり不安と期待で書いたんだけど、やっぱり僕は私小説書かせるとだめだね。変な世界に入り込んでしまうし、作品を書きながら自分の出口を探す、という荒業を強いられるせいか精神的にもかなりまいってます。

ぶっちゃけ、この作品はモチーフが何にもなかった。ある意味、それがモチーフだったのかもしれない。ただ、なんとなく自分が河辺を歩きたかった。それだけです。登場人物は二十年間の象徴だと思う。ただ、おばあちゃんのところは恥ずかしい話、自分で書いてて泣いていました。作品にはそれは表せなかったし、表したくなかった。書いてて泣いている自分を笑う気持ちで書きました。

自分で言うのもなんだけど全編通して自分でも共感できるところと、できないところがある。あえてそうしたんだけど、やっぱり自分の言いたいことを抑えたり、違う価値観を提示することは思った以上に難しいようです。この中途半端さが十代の総決算だ、という言い訳でおわらしてください。

作品中でも書いたけど、僕はこの二十年間生きて来れたことへの感謝を全ての僕を支えてくれた人に捧げたいです。全員の名前はあげられないけど、小学、中学、高校、予備校、大学の友人、先生、そして僕を育ててくれた家族に、この場を借りて、心から感謝を述べたいと思います。本当にありがとうございました。今日の僕があるのはみんなのおかげです。これからもみんなに支えられながら僕は頑張って行きます。四十になった時の僕の成長を期待してください。最後に十代のまとめ、「三つの幸せ」です。

 

「三つの幸せ」

昨日という過ぎた日を幸せに感じさせる家族を持った幸せ

今日という二度と来ない日を共に過ごせる友人を持った幸せ

明日という未知な日を期待できる自分である幸せ

 

平成十四年二月十六日午前六時三十九分 東京の自宅にて

ブログ始めてみました(このブログの目的について)

hozmixです。

読んでくれてありがとうございます!

ブログ開設の意図や本ブログについてFAQ形式で説明します。

 

Q:このブログの目的は?

自分のこれまで書いた小説やエッセイなどの作品を知り合い(過去の読者である友人たち)にシェアすることをメインの目的として、ブログを開設しました。

 

Q:なぜ過去の作品を載せるの?今更じゃない?

社会人15年目の37歳の時、仕事でメンタルをやられて、長期の休暇をとることになりました。

その際に「自分は何者なのか?」「人生とは何なのか?」「これからどこに向かうのか?」という深い問いに僕は悩みました。

その時に、もっとも自分を支えてくれたものが、過去の自分の書いた小説たちでした。

昔の僕は、今の僕に共感し、励まし、前を向かせてくれました。

それは、自分が書いたものであったからかもしれません。

ただ、この休みの期間に友人たちと話す中で、誰もが人生の斜陽を迎えるに際して、人生の意味や幸せとは何かということに悩んでいることを知りました。

僕自身、何か答えが出たわけではありません。

しかし、僕が過去に書いたものが、何らか友人たちの役に立てば(もしかしたら友人の友人にも役に立てば)、という思いでそれを載せることにしました。

 

Q:文章は当時のまま?

転載をするにあたって、誤字脱字の修正および読者に不親切な表現の修正はする予定です。

 

Q:未完の作品は?

載せてみようと思います。

その上で、もし続きを読みたいという声を頂けるものがあれば、記載することを検討したいと思います。

 

Q:今後は?

新しく小説を書いていけるようなら、追加していきたいと思います。

また、余力があればエッセイも書いてみたいなと思います。

 

以上です。よろしくお願いします。