河辺(2002年執筆)

僕の家の近くには川が流れている。
大学の帰り道、僕はいつもその河辺を歩いて帰宅する。
一人暮らしの狭い巣へは少し遠回りになるが、それが僕の日課である。

この河辺には、様々な人がいる。
サッカーや野球をする少年達、散歩を楽しむ老夫婦、愛犬と散歩をする女性、高校生のカップル、川をスケッチする青年、トランペットを奏でる少女、静かに川を眺めるサラリーマン。そして、僕。

 

季節は二月。天候は晴れ。気分は憂鬱。体は万年床の上。あそこは勃起。財布は軽い。部屋はタバコと精液臭い。携帯は着信もメールもなし。時刻は昼下がり。

僕は家を出た。タバコをくわえて、川に向かった。僕のセブンスター・メンソール、あと残り九本。

僕は明日で、二十歳。

 

アパートのある通りから一本出ると、そこには今日も川があった。ゆっくりと水が流れている。

僕は河辺に降り、そこから川を眺めた。太陽の日差しをいくつも散りばめた水面はそれを揺らしながら河口に向かって泳いでいく。

僕は口にくわえていたタバコを川の中に投げた。タバコはゆっくりと水面に乗り、そのまま吸い込まれていった。

僕はタバコを見送り、堤防の斜面に横になった。太陽が眩しい。僕は左手でそれを遮って寝ることにした。寒いけど、それもなんかいい気がした。

 

どれぐらいたったか分からないが、僕の目の前に人がいた。
学ランを着た高校生の男の子が一生懸命自転車を直しているのだ。
パンクでもしたのでであろう、僕も高校の時にはよく友達と二人乗りをしてパンクさせたものだ。

その時、その高校生と眼が合った。
高校生は野球部なのか頭は刈りあがっていて、自転車のかごには大きなスポーツバックがささっている。僕はなんとなく懐かしい気と気まずい気がし、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。

タバコを一吸いして顔を上げると、高校生はまだ僕の眼を見ている。僕は戸惑い、何かを言わなければ、と思ったが何を言えばいいか分からない。

僕はとりあえず右手に持っていたタバコを差し出した。

これ、吸うか? 高校生は照れ笑いをしながら僕のタバコを受け取った。

すいません、ありがとうございます。僕はタバコをくわえた高校生にジッポで火をつけてやろうとした。

いや、持ってますんで。高校生は自分の胸ポケットからライターを取り出して火をつけた。

すいません、ちょうどタバコきれちゃったんですよね、買いに行くにもお金もってないですし、自転車パンクしちゃって、なんかイライラしたんで、ありがとうございます、これ一本吸ってまた頑張りますよ、自転車ないと家まで一時間くらいかかっちゃいますからね。

僕は少し腹が立った、タバコの一本ぐらい頼まれればくれてやる、だけどこいつは明らかに高校生だ。確かに僕だってタバコは高校生の頃から吸っていた。だけどこいつはなんでこんなに堂々と、しかも当たり前のようにタバコを受け取り、吸うことができるんだ。

ねえ、君はさ、いつからタバコ吸ってんの?

えっ、説教っすか、いいじゃないですか、タバコぐらい、自分の体なんすから、えっと、今高校二年なんで、だいたい一年の冬ぐらいからっすね。お兄さんは今いくつなんすか? そんな俺と変わらないような気がしますけど。

俺は十九だよ。

なんだ、人のこと言えないじゃないっすか、おんなじ未成年なわけだ。

僕は無性にこいつに腹が立った。確かに僕は未成年だ、だけどこいつにおんなじ呼ばわれされたり馬鹿にされたりする筋合いはない。

君はさ、何でタバコ吸ってんの?

えっ、そんなの考えたことないっすけど、なんとなくですかね、周りも吸ってたし、なんかカッコいいじゃないっすか、ところで、お兄さんはなんでタバコ吸ってるんすか? 教えてくださいよ。

僕は答えを持っていなかった。考えたこともなければ、理由を求めたこともなかった。そう、まさになんとなく、であったのだ。

いいじゃないかよ、秘密だよ。お前が大人になれば分かるよ。それまでに考えておけよ。

僕は腰を持ち上げ川に沿って歩き始めた。

じゃあな、僕は高校生の顔を直視することができなかった。

あっ、タバコありがとうございました。

僕は自分のくわえていたタバコを川に放り投げ、そしてそのまま川上に向かって歩いてみることにした。

 

僕が河辺を歩いていると、ザザッーと人が斜面を転がり落ちてきた。
紺のコートをはおった初老の男性のようだ。
その男は僕の五メートル先にうずくまったまま立とうとしない。
ううー、っとうめいてはいるものの顔は下を向いたままだ。右手を上げようとしているのか体の右半分を起こそうとはしているが肝心の右手はだらしなくそこにぶら下がっているだけだ。

僕は心配だった。しかし、面倒に巻き込まれるのもいやだったし、その男性の身なりは明らかに浮浪者だった。

公園の公衆便所からするような嫌な臭気が鼻をつく。
男は何とか顔を上げ、僕の眼を覗き込んだ。
僕にはどうすればいいか分からない。どうすることをこの人は求めているのだろう。
周りにはこの時間には珍しく人はいない。

あのー、大丈夫ですか? 立てますか? 僕は社交辞令のようにそう呟いてみた。しかし、その男性は何も答えない。

救急車呼びましょうか?

僕は何も答えない男に腹が立った。僕の親切が愚弄されているような気すらしてきた。そして、自分のあまりに気持ちのこもっていない発言にもいらだってきた。

僕はどうすればいいかよく分からないが、とりあえず息を大きく吸ってその男性のところへ走り寄った。

僕は男性の右肩に自分の肩をかし、なんとかその男性を仰向けにすることに成功した。

大丈夫ですか? その男は酒に酔っているようで、無精ひげの奥の顔は黒く、少し赤らんでいる。

酔っているんですか?

おい、兄ちゃん、俺は酔ってなんかないぞ、これでもちゃんと二本の足で歩いてきたんだ。酒なんかにはなー、飲んだことはあってもこの五十年間飲まれたことはないんだよ、ふざけるなよ。

僕はこの人に感謝こそされ邪険に扱われる理由はない。

そうですか、大丈夫みたいだったらもう僕は行きますよ。

誰がいてくれって言ったんだ、兄ちゃんこそ酔ってんじゃないか

僕は貴方みたいに昼間からお酒なんか飲まないですし、まだ未成年ですから。

そうか、じゃあ兄ちゃんは何に酔ってんだ?

酔っ払いの言うことは意味が分からないし、その意味を考えること自体が無駄だ。

とにかく、僕は酔ってませんから。僕はタバコに火をつけた。

まあ兄ちゃん、そんなに目くじらたてて怒んなって、若いんだからのんびり行けよ、俺もその頃はこの川のほとりでのんびりとやってたよ。

この人は頭がおかしいんだ、相手にしてはいけない。

兄ちゃん、人間てもんはよ、いつでも何かに酔っているもんさ、それがそいつの生き方さ、俺は酔ってないよ、もう酔えないんだよ、酒なんて外部のものにゃー世話になんないでも兄ちゃんは酔っているんだよ、うらやましいなー、若くていいなー、いつかその酔いに気づくよ、そん時冷めちまうんだよな、まあ俺が兄ちゃんに教えてやれんのはそんなことだよ、のんびりやりな、のんびりな。

それはどうもありがとうございました。僕は思いっきり嫌味を込めて深くお辞儀をしてその場を立ち去ろうとした。

いやー、いいね、若い、若い。僕はますます腹が立ってきた。

僕は右手に持っていたタバコを男に向かって投げつけた。

おー、危ないじゃないか、ほんと近頃の若者はなんでもポイポイ捨てやがる。男は吸殻を取って自らの口にくわえた。

なんだこりゃ、メンソールか、俺の口には合わんよ。男は川の流れに吸殻を投げ入れた。なんでも流れに戻さにゃあかん、それが摂理だ。

僕は仰向けに転がったままの男に背を向けて川上に歩きだした。

 

僕が何のためにこの河辺を歩いているのかを忘れかけたとき、目の前を四歳ぐらいの女の子が横切っていった。

待ちなさい、モモコ。その女の子を追いかけるように母親らしき人が走っていく。

僕は眼でその子を追っていると、その少女も僕の眼を一瞬だけ見た。そして、それと同時に少女は石に躓いてしまった。

モモコちゃん、大丈夫? 痛くない? 少女は自分の母親を視界に捉えると安心したのか、その場で大きな声で泣き出した。

いたいよー、いたいよー、おかあさん。僕はなんだか心が温まるような気がしてその光景を眺めていた。

モモコちゃん、ちゃんと足元を見ないとだめでしょ、それにお母さんのことを置いていくからいけないんでしょ、もし大きなお怪我をしたらどうするの? お父さんに怒られるのはお母さんなのよ、気をつけなさいね。

何もそんなことまで言わなくても。少女は言われたことは全て理解できなくても、自分が母親に怒られているという揺ぎ無い事実だけは、正確に、そして大事に覚えているだろう。

少女は一層大きな声で泣き始めた。河辺には僕を入れてこの三人しかいない。

母親は一瞬僕の顔を見たが、また愛娘をあやし始めた。

さっきからずっと立ち止まって二人を見ている自分の不思議さに気づきながらも、僕は二人を見ていたい欲求にかられていた。

何がそうさせているのかは分からないが、少女が泣き止むまでは見届けたかった。

僕は少しでも違和感をなくすためにタバコを吸うことにした。
そして、目線を川の流れへと向けようとした時、また少女と眼が合った。
すると、それと同時に今度は少女がヒステリーを起こした。

えーん、いたいよ、いたいよ、あーん、あーん。少女は急に両腕を振り回しながら母親に飛び掛っていった。

やめなさい、モモちゃん。母親は娘の両腕をそれぞれの手で掴み、なんとか抑えようとはしているものの、少女は両腕でぶら下がっているのをいいことに、今度は両足で母親のことを蹴り始めた。

やめなさい、こらっ、やめなさい。
僕はすごくいたたまれない気持ちになった。何故か心の奥が僕を行動させようとする。
母親を殴った記憶、それは僕の心のずっと奥のほうで眠っているもの。
思い出ではなく、ただの記憶として、体の一部として僕の中に存在している。

僕は二人の間に割って入った。だめだよ、お母さんを叩いちゃだめだよ。

僕が入っていくと二人とも驚いた顔で僕を見た。

なんなんだ、この人は・・・・・。

時が止まった。

モモちゃん危ない!僕が左手に持っていたタバコがちょうど少女の髪の毛を焦がしつつあった。

母親は僕の左手をはたき、少女の頭を抱きしめた。

モモちゃん大丈夫? おうちに帰ろうね、お父さんも今日は早く帰ってくるよ。母親は僕には何も言わず、ただ目礼だけをして堤防を娘の手を持って上って行った。

僕は左手に響いた振動が体中に余韻を届け続けるのに身を任せていた。
眼の先では、さっき弾き飛ばされた吸殻が川をゆったりと流れていた。

耳に川のせせらぎと自動車の騒音だけが響き始めた頃、僕はまた川上に向かって歩き始めていた。

 

今日という日の、日常性と非日常性の混乱をかかえたまま、僕はあてもなく歩いた。
不思議な日なのか、別にどうってことのない普通の日なのか。

あっ、落ちましたよ。僕とすれ違ったサラリーマンが腕に抱えていたかばんの中から新聞がこぼれ落ちた。

僕はその夕刊フジをサラリーマンに差し出した。あっ、どうもすいません。

新聞の一面は最近世の中を騒がしている外務省の問題についてであり、ちょうどその見出しである、「伏魔殿は政治家の神殿か」というところに黒ずんだガムが付着していた。

あっ、不運でしたね。僕はとりあえずそう言って、その場を取り繕うことにした。

サラリーマンの顔はやけに笑顔で、眼は澱んでいた。

いや、いいんですよ。仕方がないですよ。あ、でもまだあんまり読んでなかったんですけどね。いやー、本当に最近私ついてないんですよ。あれー、本当についてないんだよな。今年のおみくじ大吉だったのに、あっ、あの神社に行ったこと自体が運がなかったのかな。

なんで今日はこう変な人にばかり遇うんだろう。この人は急いでいたんじゃないんだろうか。サラリーマンはさっきまでせかせかと動かしていた足を、ご丁寧にきっちり揃えて僕のほうに向けていた。

この新聞貴方読みます、いや、私はね、一通り目は通したんですよ。どうせ家には夕刊が来てますし。あー、でも貴方若いから夕刊フジなんて読まない、そうですよね、こんなのおっさんの読み物だって思ってるんでしょ、ねえ。

この人はガムがついたことを忘れているのだろうか、それとも僕との会話を長引かせるためにこんなくだらない独り言を僕に聞かせるんだろうか。

あの、僕はいりませんから。おじさんもいらないんだったら捨てたらどうですか?

あーそうだよねー、君から見たらもう僕はおじさんなわけだ、年は取りたくないよね、君は学生かな、僕はいくつに見える? これでも同期の中では髪もふさふさしてる方なんだけどな、まあ、結婚して子供がいたって普通の年なんだし、いまさらおじさんて言われたって気にしていたら生きてなんていけないよ、でも、あー、そうだ、おじさんて言われたのが初めてなんだ、君、今日は何日か分かる?

えっ、二月の十六ですけど。

そっか、じゃあこの日は僕にとって記念日なわけだね、そういうことなんだね、そして、君は記念の人なんだね。

僕はこの人の話を聞いているのが面倒くさくなりタバコをくわえた。

おい、君はなんなんだい、僕がタバコ嫌いなのをしらないのか。

いや、知らないっすよ、だめならすぐしまいますよ、火もつけてないっすから。僕はとにかくこの人と話すのは嫌だった。

そういう問題じゃないんだよね、分かるかな、いや、君にはわかんないよね、だからタバコなんて吸おうとするわけだし、目上の人に対する尊敬、敬意ってもんがまったく感じられないんだよ、君だって年下の奴に馬鹿にされるのは嫌だろ。

確かに年下に馬鹿にされるのは腹が立つ、しかしそれは年なんか関係ない。僕が僕以外の人間に馬鹿にされるのは許せない。それに、敬意ってもんは年なんかに関係ないんじゃないか。

君はちなみにどこの大学なの? このあたりに住んでいるってことはS大学かB大学か? 僕はH大なんだけどね、やっぱり先輩に恵まれてね、君にはまだ分かんないかな? ようは社会に出たらコネってわけ、コネってわかるよね? コネクションの略ね、だから僕みたいにまじめにコツコツやった人が勝つとも限らないんだけど、僕みたいに両方あるとね、こうやって高校とかの同級生にうらやましがられるってわけ、難しいかな、つまりさー、モテるってことよ、俺なんて中学校の同窓会とかじゃモテモテだよ、みんな結婚意識する年だしね、僕みたいないい男そんないないわけでしょ、まだ言ってなかったかもしれないけど、やっぱ業界人ってやつ、銀座とかでさー・・・・

僕はストレスを感じた。僕は何も悪いことをしていない。
そして、この人にいい事をしてあげる必要も義務もない。

あの、楽しそうなお話中失礼なんですけど、僕、そろそろ行きますんで。僕は川上の方に歩き始めた。あっけにとられる男を無視してさっきからくわえたままのタバコに火をつけた。

おい、待てよ、これ俺の名刺だからさ、えっ、すごいだろ、これやるからよ、就職困ったら電話してこいよ、俺の力みしてやるよ。

僕は無視しようかと思ったがこれ以上自由な時間を拘束されるのは嫌だったので名刺をタバコを持っていた左手で受け取った。

おい、なめてんのかよ、俺を怒らせると恐いんだぞ、ふざけるな。男は僕の左手を新聞で弾き飛ばした。

僕の手にあった名刺とタバコ、そして男の持っていた新聞紙は仲良く音を立てて川に飲み込まれていった。
僕は川に向かってつばを吐き、そのまま体の向いている方へと歩いていった。

 

太陽もだいぶ傾いてきた。
僕の眼に映る川も今まで見たことのない表情を見せている。

こんなに川に沿って歩いたのは初めてだった。

僕は少し歩き疲れて、河辺に置いてあるベンチに腰掛けた。
座って眺めると水の流れは一定のように見えて、微妙に変化しているような気がする。
石や砂利や泥が混ざり合って、よどめきあって、一つの流れを作っている。

川が、お好きですか?

僕の隣におばあさんが座っていた。

はい、どれだけ見ていても飽きないんですよ。

何故か僕は今日初めて人としゃべった気がした。

そうですか、川はいいもんですよ、何年たっても変わらないもんってのはきっといいものなんですよ。世の中は、何でも変えろとか、悪いものはすぐになくせ、なんて言ってるけど、結局は、川を流れているだけなんだろうね。

僕にはよく意味が分からなかった。

おばあさんはこの辺に住んでいるんですか?

何故かこの人には自分からしゃべりたいと思う。

そうだよ、生まれたときからこの川を見てきた、生まれたのはもっと上流の方なんだけどね、こっちに嫁いできて、今は息子夫婦と住んでいるのさ。

そうですか。なんとも言えない懐かしさが体を支配しているのが分かる。
自分の体なのに、自分が何も分かってないのがよく分かる。
僕は、泣いている。

どうしたんだい?

いや、なんか自分の死んじゃったおばあちゃんの事を思い出していたんですよ。僕が高校の三年になるまでずっと一緒に暮らしていたのに、悔しいのが、本当に今でも悔しいのが、一度もありがとうを言えなかったんです。言いたかったんです、一言でいいから、僕を愛してくれてありがとう、と。

そうかい、そりゃあ、あんたのおばあちゃんは素敵なお孫さんをもってさぞ幸せでしょう、でもあんたのおばあちゃんはきっとそんなこと言われるためにあんたを愛していたわけじゃないんじゃないかい、あんたを愛し、あんたを育てることが、おばあちゃんの幸せであり、喜びだったんだよ。

僕の涙は止まらない。

それにあんたを育ててくれたのはあんたのおばあちゃんだけかい? 違うはずだろ、まだ生きてる両親にも感謝できない子供が、おばあちゃんにだけ、なんてむしがいいと思わないかい? あんたが生きていることはきっと多くの人の祝福を受けてきたんだよ、人間は祝福に感謝するために生きているんじゃないよ、人間ってやつは面倒なもんで、祝福を受け、そして祝福をしていくために生まれたんだよ。生命を祝福していくことが、あんたにとって大事なことなんだろうね。

僕の涙腺は僕のものではないようだ。

おばあさんは今、幸せですか? 自分の人生が幸せだ、って思いますか? 僕は涙声で言った自分の声が相手に聞こえたか心配だった。

おばあさんは川を遠い眼で眺めている。僕はそのおばあさんの眼を眺めている。

僕はタバコに火をつけた。タバコの味が少し塩っ辛い。

私はね、辛い人生を歩いてきたよ、楽しいことなんて思い出せないし、いい思い出なんてものも思い当たらない。

僕はすごく悲しい思いになった。僕は期待していたのだ、この人が自らの人生を幸せだと言って肯定してくれることを。

でもね、幸せだったかなんて分かんないよ、もちろん不幸せだったかもね。それは、まだ私が生きているから。生きているうちにそんなこと真面目に考えちゃ長生きはできないよ、あんたのおばあちゃんも今ごろ天国で自分の人生を振り返っているさ、そして、自分の人生の最後を幸せに感じさせてくれるのが、きっとあんたなんだろうね。あんたの存在が、彼女の幸せなんだろうね。

おばあさんは泣いていた。僕も泣いていた。
二人で流れ行く川を見つめながら泣いていた。

僕は自分の右手に溜まった涙にタバコの火を押し付けようとした。こうやって感傷に浸っている自分にいらだち、今の自分の無力さとそれに安住している自分の惰性が許せなかった。

うっ、タバコから燃えカスが飛び散り、手に当たった。

あんた、何やっているんだい!

僕は驚いて左手に持っていたタバコを投げ捨て、川上に向かって走った。

タバコはまた川を流れているのだろうか。たぶんさっき捨てたタバコは川を流れているような気がした。

あっ、そういえば今のおばあさんにありがとうを言ってない。そう気づいたが後ろは振り向かなかった。

 

僕は自分の靴紐がほどけているのに気づき、その場にしゃがみ込んで紐を結んだ。

すると、ちょうど自分靴の上を一つの影が通り過ぎた。
僕がその影を追うと、そのスニーカーも紐がほどけていた。

あの、紐がほどけてますよ。僕はスニーカーに言った。

あっ、ほんとだ、ありがとうございます。スニーカーの持ち主は僕と同じぐらいの年の女の子だった。

女の子はその場にしゃがみ込んで紐を結び始めた。
クリーム色のスカートをはいた
女の子は僕の方に体を向けて作業をしており、僕の眼に彼女のピンクの下着が飛び込んでくる。

僕は言いようのない歯がゆさと気まずさを感じ、タバコを大きく吸った。

散歩しているんですか?

はい、いい天気だから。貴方は?

いや、僕もそうなんですよ。僕の場合はただなんとなく、なんですけどね。

私もそうですよ、一人で家にいたってつまらないから、こうして当てもなく歩いているんです。

僕はこの女の子に少しだけ自分と同じ匂いを感じた。普段なら見ず知らずの女の子に声なんてかけられないが、今日という日の非日常性と、この女の子が持つ匂いが、僕に勇気をくれた。

女の子は紐を結び終わり、僕ピンク色の興奮を隠してしまった。

その僕の残念そうな顔が、退屈そうな顔に見えたのか、女の子は自らもタバコをくわえ、僕に話しかけた。

実はわたし、今すごい悩んでいることがあるんですよ、こんなまったくの初対面の人に話すのもすごく変だとは思うんですけど、年も近そうだし、聞いてくださいね。

私、もうすぐ二十歳になるんですけど、処女なんです。変な話をしているのは十分承知なんですけど、変な女だって思わないでくださいね、大切な話なんですから。

僕のあそこは勃起していた。どう考えてもこの子は変な子だ、何がいいたいのか僕にはまったく理解できないし、今後何を聞いても理解できそうにない。ただ、無性にこの子に性欲が湧いているのは事実だった。僕の頭の中はこの子の処女をどのように奪うかで一杯だった。

それで、今好きな人がいるんですけど、やっぱり二十歳で処女っておかしいですか? わたし、男の友達っていないし、あなたはなんか真面目っぽいから信用できそうだし、どうなんですか?

僕の頭はまったくと言っていいほど働いていない。まさに、僕にちんこが付いているのではなく、ちんこに僕が付いている、といった感じであった。

僕の脳に張られたテロップには、僕も二十歳になるんですけど、童貞なんですよ、一緒に卒業しませんか。意識は下半身を脱しきれない。

男の人ってどんなひとでもH好きじゃないですか、でも私っていつもそんな雰囲気になると冷めちゃうんですよね、だって、その人が愛しているのは私の心であって、体じゃだめなわけですよ。心が体に嫉妬しちゃうのってまずいじゃないですか、そう思いません?

僕のちんこは言葉をしゃべれない。

みんなは心と体は一緒だとか言うじゃないですか、でも人間ってそんなに器用じゃないと思うんですよ。体も心もそれぞれ意識ってものを持っているし、無意識の部分だってある。中身が外見を演出して、外見が中身を構築するってことは知っているけど、私の中身は処女性にこそ私のアイデンティティを見出すんですよ。

彼女の発言はとっくに僕のちんこのI.Qを超えていた。

快感って体の感じるもので、私の中では、本当の快感っていうものは体と心が同時に感じられなければ嘘なんですよ、だから私にとってセックスにおける他者性っていうものはマスターベーションにおける虚像と同じで結局は意味を持たないものなんです。さっきからずっと考えながら聞いてくれているみたいですけど、こんな私の悩み、わかってくれます?

僕のちんこはもう萎えていた。そして、萎えたちんこに付いていた僕はこの子に対する性欲を完全に失ってしまった。

なんとか、ちんこの付いた僕に戻る。なにかが吹っ切れた気がする。

僕はさ、実は童貞なんだ、だけど、僕はセックスしたいな。いつも想像して自分でオナニーしているけど、どっか悲しいんだ、もちろん二十歳なのに、ってのもあるよ。だけどさ、セックスに対する欲望だけは誰にも負けない自信があるよ。無知ってさ、無謀になっちゃいけないけど、すごい勇気をくれると思うんだ。僕のセックスへの想像力はきっと百人の女と寝た同い年のやつなんかよりすごいよ。そして、僕はこんな惨めな自分に自信を持っている自分が好きなんだ。君が処女なのには、君なりの理由がある。僕が童貞なのには、僕なりの言い訳しかない。難しい言葉はよく分かんないけど、それが僕のアイデンティティって奴なんじゃないかな。

僕は震える手でタバコを大きく吸った。生まれて初めて自分を人の前で誉めた気がした。

私、あなたみたいな人と付き合えばきっと幸せになれるのにね。お互い幸せになりましょ、童貞、大事にね。彼女は川下の方へと歩いていった。

僕は彼女に童貞を奪ってもらっても何の後悔もなかっただろう、と後悔しながら川上に足を動かした。タバコは忘れずに川に投げ込んだ。

 

ここはどこだろう、僕はどれだけ歩いたんだろう、あたりはもう暗くなり始めている。
一抹の不安がよぎる。
大丈夫、川に沿って戻れば、僕は後ろを振り返ろうとした。

おお、森山じゃん! 僕は声のした川上を見た。

菅谷じゃん、久し振り、お前どうしてこんなところにいるんだよ。

そんな、お前こそ。

菅谷は中学校時代の同級生だった。

中学の卒業式以来じゃん。

そうか、もうそんなになるんだな、なんか懐かしいよ、お前は変わんないな。

そんな、お前こそ、一発で分かったよ。俺らももう二十歳だよ。

そうだよ、お前らは二十歳だよな、いいよな。

何言ってんだよお前だって同い年じゃないか、ふざけるなよ。

僕は菅谷と顔を見合わせて笑った。どこか菅谷には元気がない、そんな気がした。

僕はタバコに火をつけた。お前も吸うか?

いや、俺は吸いたいけど吸えないんだよ、気にせず吸ってくれよ。

そっか、じゃあ遠慮なく吸わしてもらうぜ。僕は煙を大きく吐き出した。

ところでさ、森山は将来どうすんの? 何か考えている?

なに急にシリアスな話を始めるんだよ、俺ら久し振りに会ったんじゃん、もっと楽しい話をしようぜ。

僕は笑いながら菅谷を見たが、彼は笑っていなかった。むしろ苦しそうにすら見えた。

今日は不思議な日だ、僕は割り切ることのした。

ごめん、ごめん、実際のところまだ決まってないんだ。来年は三年で就職活動も始まるけどさ、まだ自分に何ができるのか分かんないんだよ。それに、自分がやりたいことができるって保証はどこもないしね。もちろん考えてはいるよ。だけどそれが形にならないんだよ。不景気だし、日本だってこんな感じだろ、正解なんてないんだよ、どっちに転んだってなにも変わらない気もするしね。まあ、なんとかなるんじゃないかな、って思って生きているよ。お前はどうするんだ、菅谷?

俺のことはいいよ、で、お前は今楽しく生きているのか?

変なことを質問する奴だ、昔から変わった奴だったがこんなではなかった気がする。

正直楽しくなんてないよ、中学の頃が一番楽しかったさ、毎日を全力で駆け抜けて、自分の好きなこと、自分の楽しいことだけを追いかけていた。今なんて、ただなんとなく今日がきて、明日がきて、そして未来が来る、って感じでさ。昔は毎日が新鮮で、毎日が発見で、毎日俺らはときめいていた。だけど今はときめきなんて考えられない生活だよ。自分で言っててむなしいけどさ、それが現実なんじゃないの。

菅谷はひどく悲しそうな顔をしている。

森山、俺が今から言うことは別に上から言うわけでも、下から言うわけでもない。対等な立場として言うんだけどさ、多分これは俺がお前に何かを伝えられる最後だと思うんだ、別に押し付けようなんて思わない。ただ、少しでも印象に残ったことを覚えておいて欲しいんだ。

俺らは二十歳になる、つまり二十年間生きてきたってことだ。そして、成人となる。法律上俺らは大人になるわけだ。だけど俺らは何一つ変わらない。成人したからって価値観も世界観も、主体的なものは何も変わらないんだ。ただ、世間の見方が変わるだけ。そして世間の見方が俺らの価値観や世界観を侵食していくんだ。俺らはいつまでたっても自分でいるべきだ。大人と子供の境界なんてないんだ。そんなのは大人が作った理屈でしかない。そして、大人になることをマイナスイメージで捉えること、これも子供が作ったただの大人への反抗の一環でしかない。結局は全てが幻想なんだよ。大人、子供、どちらにも正と負のイメージがあるけど、一つだけたしかなのは、年をとるということだけ。俺らは二十年間精一杯生きてきた、それが成人の証なんだよ。今日という日は二度と来ない、それを知っているのに今日はいつもあっという間に過ぎていってしまう。そんな現実はいつも俺らを悲しくさせるけどさ、それでいいんじゃないかな。ただ、毎日を思いっきり生きられれば、それで幸せなんじゃないかな。二十年間生きてこれた幸せ、二十年間でできた最高の思い出、それを引っさげて次の二十年間をこの二十年間よりも楽しく、幸せに生きられればそれが大人であり、今日の自分が生きている意味だよ。

僕は吸っていたタバコを川に捨て、もう一本新しいタバコに火を付けた。

ありがとう、ハッキリ言って菅谷の言うことは全部理解できなかった。だけどさ、俺も四十になった時にさ、二十歳の自分より幸せであることを望むし、そうなれるようにも頑張ろうと思う。今日の自分より、明日の自分の方が幸せじゃなきゃ生きている意味なんてないしね。

菅谷は僕の眼を見て頷いた。森山、きっとお前が四十になった時もここで会おうな、絶対に。

おう、そんなこと言わずにまた会おうよ、家が近いみたいだしさ。

菅谷は笑ったまま僕に手を振った。森山、このまま川上に向かって歩いていけよ、そうすればお前の家に帰れるよ。

でも・・・・。僕はしゃべるのを止めた。

わかった、菅谷、ありがとう、また二十年後にな。

森山も元気で。僕は口にくわえていたタバコを川の向こう岸に届くぐらい思い切り投げた。

菅谷、これやるよ。僕は九本目のタバコを菅谷に投げ、それの行方を追わずに川上に向かって歩き始めた。

ありがとう、森山、みんなにもよろしくな、精一杯俺の分も生きてくれよ。

僕は涙の止まらない眼を左腕でこすりながら足を力の限り動かしていった。

 

左腕を顔の前からどけると当たりはもうすっかり薄暗くなっていた。

そして、そこは僕が昼寝をした土手のまさに目の前であった。

少しおなかが減った気がする。僕はポケットからタバコをだし、それをくわえながら家の方に向かって歩き始めた。

タバコの煙が夕闇に溶けていく。僕も暗闇に紛れ込んでいく。

明日、二十歳になる等身大の僕で、僕の好きな僕のまま。

 

 

 

十代への後書

なんとか書けました。変な話、二十歳になれる幸せの結晶がこの作品かもしれない。

あー、後書だから構成なんて全く無視して書けるのがうれしい。もともとそんなの考えないで思うままに書いているんだけど、こうやってある意味つれづれなるままに文章を書けるのは幸せだ。そして、これを読んでくれる人、この作品(というか僕の新作)を待ってくれている人がいるという幸せを今はかみ締めています。生きててよかった。hozmixでよかった。おおげさかな、でも、僕はとってもうれしいです。

一応、作品について。なんかよく分からないってのが本音かな。二年ぶりの私小説でかなり不安と期待で書いたんだけど、やっぱり僕は私小説書かせるとだめだね。変な世界に入り込んでしまうし、作品を書きながら自分の出口を探す、という荒業を強いられるせいか精神的にもかなりまいってます。

ぶっちゃけ、この作品はモチーフが何にもなかった。ある意味、それがモチーフだったのかもしれない。ただ、なんとなく自分が河辺を歩きたかった。それだけです。登場人物は二十年間の象徴だと思う。ただ、おばあちゃんのところは恥ずかしい話、自分で書いてて泣いていました。作品にはそれは表せなかったし、表したくなかった。書いてて泣いている自分を笑う気持ちで書きました。

自分で言うのもなんだけど全編通して自分でも共感できるところと、できないところがある。あえてそうしたんだけど、やっぱり自分の言いたいことを抑えたり、違う価値観を提示することは思った以上に難しいようです。この中途半端さが十代の総決算だ、という言い訳でおわらしてください。

作品中でも書いたけど、僕はこの二十年間生きて来れたことへの感謝を全ての僕を支えてくれた人に捧げたいです。全員の名前はあげられないけど、小学、中学、高校、予備校、大学の友人、先生、そして僕を育ててくれた家族に、この場を借りて、心から感謝を述べたいと思います。本当にありがとうございました。今日の僕があるのはみんなのおかげです。これからもみんなに支えられながら僕は頑張って行きます。四十になった時の僕の成長を期待してください。最後に十代のまとめ、「三つの幸せ」です。

 

「三つの幸せ」

昨日という過ぎた日を幸せに感じさせる家族を持った幸せ

今日という二度と来ない日を共に過ごせる友人を持った幸せ

明日という未知な日を期待できる自分である幸せ

 

平成十四年二月十六日午前六時三十九分 東京の自宅にて