河辺から3年(2005年執筆/未完)

あれから三年が経った。僕の周りもすっかり変わってしまった。
そして、何よりも僕自身も変わってしまった。

 

二十三年間の人生を生きてきて、これからそれよりも長いであろう時間を旅していくことになる。
きっとこれまで以上に辛く、苦しいことも多いだろうが、それよりも楽しいことや喜びに満ち溢れているであろうことを、僕は願う。

 

今の僕はこの瞬間を生きている。そして、この瞬間は二度と来ない。
だからこそ、その瞬間を切り取り、形に残したいと思いながら、苦悩する。
形にすることには美しさと欺瞞が詰まっているが、そうしないで一瞬を忘れてしまうこと、つまり記憶が風化していってしまうことを僕は何よりも怖れているのだ。

 

僕が生まれた時のことを、僕は知らない。

がどのような人生を歩んできたのかも、僕は知らない。

だが、それを知りたいとは不思議と思わない。
そういうもんなんだとどこか諦めに似た優しい気持ちを持つからだ。

生まれた時には体から精一杯の泣き声を絞り上げることしかできなかった僕が、これまでに話した言葉、出会った人、見た景色、読んだ本、聞いた音楽、そのすべてがもう失われてしまっている。

そして、僕はその記憶に残された愛すべきものたちに囲まれ、支えられ、精一杯に生きている。

今しか見えないものがある、と信じてきた。

同じモノでも今しか見えない見え方がある、と信じてきた。

今でもそう思うし、そうであって欲しい。僕は、多くを願う。

 

人生には目的が必要不可欠であると説いた。

そして、それが答えだと思う。

しかし、その具体的な目的を見失い、漠然として上を向いていることがあまりに多いのではないだろうか。

それに気付いた時、僕はその事実をなんとかして何かで覆い隠したくなるのだが、うまくいかない。

焦りにも似たもどかしさに突き上げられ、ただ、布団の中で時を過ごす。

もったいない時間の使い方をしてしまったと後悔しないように、常に体を休める。

いつか、体が動き回り疲れ果ててしまう時のことを期待と想像し、眠りにつく。

それじゃあいけない、なんて誰も言わないし、言われても聞かない僕。

寝ている時こそが、どんな喜びや感動にも比較できない平和と安心を心に抱く。

 

僕は、赤子に憧れる。

その未来に待っているいくつかの運命には関心がない、ただその時を精一杯に眠りながら生きている赤子に、今の自分をなんとなく重ねてみる。

しかし、当たり前のようにうまくいかない。

俺は赤子を可愛いと思うが、そこには理由もなければ、赤子が可愛がられるのにも理由はない。

純粋に本能のままに生きていること、そこには生物という生きた芸術としての全てが集約されているように思えるのだ。

 

三年前河辺を歩いた僕は、今は河辺を歩かない。なぜなら、歩く勇気がない。外に出れば、出会いたくないものや煩わしいものが僕を待ち構えている。

僕が今もっているものがそうやって手に入れてきたものであることは分かっているのに、もうこれで十分であるかのように錯覚してしまうのだ。

錯覚、じゃないかもしれない。もう、外に出る必要はないのかもしれない。

「どうするの? 」

僕は、外に出る。外に出なければいけない。

守らなければならないものなんてなかったけど、守りたいものはいつのまにか内側に抱えていた。だからこそ、外に出なければいけないのだ。

自分のためだけに生きてきた。自分がよければすべてがそれで楽しかったし、楽しい時間が永遠に続く人生こそ幸せであると思っていた。

でもそうじゃないってことに僕は今、気付き始めている。

外に出る意味が、急に変わってしまった。

外で遊ぶことが楽しくてしょうがなかったあの頃、家は退屈であった。

今も同じだが、決定的に違うのは、外より家のほうが安全であり、心地よいということだ。

保障と安全を目の敵にして生きていた十代。その頃の僕が今の自分を見たら、どう笑い飛ばし、罵声を浴びせてくれるだろうか。なりたくない大人になりかかっている僕は、恥じるべきなのだろうか。

 

無知であったあの頃、1人で生きていたあの頃、依然無知なのに1人ではない今。

僕が思うのは、昔の自分は誇りであるということ。
昔の自分を笑う気にはなれない。

そして、昔の自分なら今の自分を誰よりも批判できるであろう。
批判してほしいわけではないが、そうしてもらうことが何よりの慰めになるのだ。

いつまでも子供でいたかった。すぐにでも大人になりたかった。

今の僕は、大人だ。大人としてできることは、まだこれから学ばなくてはならない。

 

自分の幸せと、他人の幸せ、どっちが大切かという質問に対する答えがすっかり変わってしまった。

昔はこうだ。

「自分の幸せが一番だからこそ他人が幸せでないと困るし、自分の幸せに関係ないことはどうでもいい」と。

今は、こうだ。

「他人の幸せがあってこそ自分も幸せになれるし、自分と他人という境界が曖昧な存在にこそ、一番の幸せを願う」と。

 

僕の幸せって、何だ?

僕の目的や夢って、何だ?

 

こう考えると、僕はまた外に出てみたくなる。

考え込むのや、悩むのが嫌だからではなく、外にはいつも僕の心を刺激してくれるモノが存在していたからだ。このことは決して忘れてはいけない。

自分というのはいつも一番の存在であり、決して裏切らない。
だからこそ、たちが悪い。自分だけでは絶対に自分を理解することができないのだ。

外に出て、違うものに触れた時にこそ、初めて自分が見えてくる。僕は自分を知っている気になっているだけだ。

自分をもう変えたくないと思い始めているのも事実で、否定できない。
だが、もっと自分を成長させていく楽しみにこそ、貪欲でありたい。

 

ここまで僕を今に縛り付ける存在、それは僕の宝物である友人であると疑わない。
素晴らしい友を持ったゆえに、これ以上の友はもういらないのだ。
新しいものよりも、今もっている宝石たちを大事に、手元にしっかりと置いておきたい。

でも、誘惑を無視してはいけないのは分かる。

5年前、同じ強い思いと誘惑を持ち、東京に旅立った僕。

東京は何も与えてくれなかったけど、東京というステージで僕はチャンスをたくさん手に入れた。
日本の首都であり、人の集積場のような場所で、僕は埋もれた。

そこには外しかなく、刺激と寂しさが常に同居していた。僕は日々磨かれ、成長した。外にも、自分の居場所を確保するまでになった。

 

(未完)